ウミネコ
「海の音が聞こえるね」
洋介の妻・千春は、そう静かにつぶやき、病院のベッドで息を引き取った。5歳の娘を残し、35歳という若さでの病死。
洋介と千春とは幼なじみだったが、高校を卒業した後はしばらく会っていなかった。洋介は東京の大学へ行き、千春は地元の大学に入学。
ふたりが再会したのは、お互いハタチの冬。もうひとりの幼なじみ・遥人の葬式だった。遥人は高校を卒業後、父親の家業である漁師になっていたのだが、突然の海難事故。
物心つく前から、洋介、千春、遥人は一緒だった。ただ、洋介が地元を離れ、東京の大学へ行ったのは、千春と遥人、それぞれへの思いもあったからだ。どんなものかはっきり言えなかったが、もやもやとした霧を晴らすだけの勇気はなかった。
そんな後ろめたさもあり。幼なじみの死をどう千春と分かち合えばよいのかもわからず。若干20歳の男子には非常な難問だった。
当時の洋介は、千春とろくに話もしないまま、東京へとんぼ返りした。
そんなことを思い出しながら、25歳になった洋介は、再び舞い戻った地元のバス亭で、空をボーっと眺めていた。
セミがけたたましく鳴きわめき、ときどき走り去る車がアスファルトを蹴る音だけで火傷しそうな暑さ。それでも、海風が吹き抜けるこの町は、東京に比べれば楽園のように感じた。
「ヨースケ?」
聞きなれたトーンで自分を呼ぶ声がした。
「やっぱり! ヨースケじゃん。どーしたの?」
聞きなれた声に、少し大人の落ち着きがブレンドされている。一瞬、それが幼なじみのものだと受け入れるのに迷いが生じたものの、背中からこみあげてくる懐かしさが、その迷いを包み込んだ。
「帰ってくるなら連絡くらいよこしなよ~」
「いや、お盆だしさ。一週間くらいコッチで過ごそうと思って」
本当は仕事を辞めてきたことを洋介は言えなかった。
「今職場で雑用終わらせてきたところ。もうすぐ迎えが来るからウチ来なよ」
千春は役所で働いた。大人びた25の千春を目の前にした洋介は、千春が働いている姿を想像してしまう。そうやって、無意識に5年……、いやそれ以上の「ブランク」を埋めようとしていた。
「いや、さっき家に電話したからいいよ」
そんな嘘をついて、彼女との距離を認めようとしない自分を、洋介は蒸し暑く感じている。
「じゃ、後で行くから。いいよね?久しぶりにヨースケの部屋みたいし」
なにかを必死に取り繕っている洋介を見透かすような笑みを浮かべて、千春は迎えの車に乗り込んだ。
翌日、洋介と千春は、亡くなった幼なじみ、遥人の家に来ていた。昨晩、洋介の実家に押し掛けてきた千春が、遥人の母親に会いに行こうと提案したのだ。
千春はたびたび訪問しているらしい。そうすると、決まっておばさんは千春に留守番を任せて、買い物にでかけるそうだ。買い物から帰ってきた後は、ふたりでお茶を飲みながらたわいものない話をして帰る。
おばさんが「ただいま」を言えるように、だそうだ。
静かに鳴っていた風鈴が、強い風で不意にけたたましく音をたてる。
それと同時に、突然千春が声をあげて泣き出した。
しばらくして、千春がそっとつぶやく。
「昔のこと、思い出しちゃった」
昔は、洋介と千春、遥人の三人でよくこの部屋にいた。
「おれのせいかよ」
バツ悪そうに洋介がつぶやくと、千春は
「そうだね。ヨースケのおかげ。5年も遅れちゃったけど」
そう千春が話しているうちに、おばさんが帰ってきた。
昔話に花が咲き、夕飯をごちそうになった後、遥人の家を後にする。
「ねぇ、ハルトの仏壇もないの、気付いてた?」
「そういえば」
「2階の部屋もそのままなんだよ」
「そうなんだ……」
しばらくすると、おばさんの泣き声が聞こえてきた気がした。
「ハルトのところいこ!」
帰省を後悔していて沈む洋介の腕をひっぱりながら海岸へ向かう千春。
「ハルト、ごめんね。そこまでいってあげられなくて」
真っ黒の海を見つめてそう小さくつぶやく千春。
「あいつさ、海の男だから。キングサイズのベッドで寝てるようなもんだよ。きっと大股広げて、大の字で寝てるって」
実際、この砂浜で遥人はよくそうしていた。
「イイネ。『男の友情』って感じ」
そんなもんかと洋介が尋ねると、そうだよと答える千春。付け加えた「ぜったい」という言葉に、彼女の願いも込められていた気がした。
今、5歳の娘と手を繋ぎながら、洋介は同じ海を見つめていた。
あの夜、思い切って遥人のことをどう思っていたのか聞いてみたが、
「秘密がある女の方が魅力的でしょ?」
とはぐらかされてしまったのだ。
最後のチャンスだと思い、千春が息を引き取る数日前にも同じことを尋ねた。
千春はクスっといたずらな笑みを浮かべて言った。
「ほら、ずっと気にしてくれてる。だからこれからも秘密。そしたらこれからも…」
その先の言葉を、洋介は聞き取れなかった。
千春の墓は、海が見下ろせる場所にある。遥人の墓とも、そう遠くない。
母親に似て、海が好きな娘は、最近仲良くなった男の子ふたりと一緒に、キラキラ光る砂浜ではしゃいでいる。
そんな姿を見つめていると、強い海風が吹き付け、リボンのついたストローハットが飛んできた。
近づいてくる足音は、ちょっと意地悪な千春の笑い声の様な気がした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?