見出し画像

立庭和奈の知れば知るほど 9その3

 では話をもう少し先に戻して、「富」とは何か考えてみましょう。例えば世界のどこかの砂漠に、昔栄えた文明の莫大なお宝が眠っているらしいという話を聞いた時、あなたはどう思うでしょうか。実在することが証明されて、正確な場所が発見されたとしても、私たちにはほとんど手にすることが出来ません。たとえその財宝の発見者だとしても、国境を越え、現代の法律を越え、世界中の人たちの目を潜り抜け、自分の家に持ち帰ることはできません。どれだけ莫大でも、その金銀財宝はあなたを潤すことはないのです。

 それは世の中のもうけ話や、誰かの成功したビジネスでも同じです。あなた自身に豊かさをもたらすものではないからです。もちろん成功した人と同じように、再現できれば別です。肝心なのは自らに豊かさをもたらしてくれるかどうかということです。9話の最初にもお話ししましたように、実在する何らかの「もの」そのものが、自分自身を豊かにするとは限りません。それを通してあなたが「豊かさ」を感じられるか、もしくはあなたが「豊か」であると感じられる心を持ち合わせているかどうか、ということが何よりも肝心なのです。

 そうすると富の源泉というものは何かということも、おぼろげながらにも見えてこないでしょうか。現代社会を生きるほとんどの私たちが富と感じるもの、例えばおいしい料理や高級な車、憧れのマイホームなどは、すべては最初からこの世の中に存在したものではありません。誰かが作り出したものです。和食、洋食、中華料理などあらゆる料理は先人たちが試行錯誤の上にたどり着いた料理法です。自家用車が発明され普及されるまでは(もちろんあらゆる乗り物も含めて)、移動する手段は徒歩か動物に乗ることでした。住居の始まりは前にもお話ししましたが、洞窟を利用することから始まり、今では利便性に富み情緒感ある建物を作ることもできるようにまりました。こうやって見てくると、富の源泉も私たちのイマジネーションや想像力、「こうだったらいいな」という思いにあると結論付けることが出来るように思われます。

 言い換えると、豊かさも富も、本来は外から与えられるものではなくて、自分自身の内側からくるものといえないでしょうか。そうするとこれはすごいことです。金銀財宝、希少資源、不動産としての土地、貨幣として流通しているお金もすべて限りがあります。そういうものが富の本質であると思っている間は、それらを所有していたり管理している人たちだけが、儲かったり得をすることになるのですが、富の無限性に気付く人が増えると、誰もがその無限の富にアクセスできる機会を手にすることが出来、有限の富に縛られない自由な人が増えることになります。また、どこかの土地に埋もれた財宝は、巨大な国の国王か、めっちゃ強い海賊などにしか手にすることはできませんが、自分の中のクリエイティビティや夢や希望が、豊かさを生み出していることを知れば、恵まれた人や特別な利権、生まれながらの環境に左右されず、喜びにあふれた人生を送ることが出来ることになります。その宝地図は、人それぞれの心にあるのですから、発見した人には誰にもたどり着くことが出来るのです。それでももし一つ問題を挙げるとするならば、成功した人の体験をそっくりそのまま真似することはできません。誰かが掲げた目標や、社会で良しとされるステイタス、年収やファッション、学歴、肩書、出身地なども参考にすることはできません。なぜならそのゴール地点は完全にあなただけのパーソナルな、まさにオーダーメイドな満ち足りた世界だからです。

 

 

いつの世も 人の出会いは ゆくりなく 見えぬ糸にて 繫がれしか