引退競走馬の活躍場所を減らしたくないから、上げ馬神事を無くさないで


こういう呟きは、本来のところあまりしたくない。それでも呟くことにしたのは、神事に引退競走馬が使われるからこそ、その受け皿があるわけで、もし馬が使われる神事を無くせば、ただでさえ引退競走馬の受け皿はそれほど多くないという現実があるのに、その1つが無くなってしまう可能性があることに危機感を抱いたから。

出来ることなら存続して欲しい取り組みだが、ここまで炎上して叩かれてしまった以上、今の形式のままで存続させた場合には動物愛護団体から攻撃され、それに同調する人たちからは、気が済むまで叩かれることになるのは言うまでもない。存続させる為には、やり方を変えることが望ましいだろう。
僕は当事者でもないので、具体的な案は何一つとして出せないが。

僕は、この炎上が競馬にも飛び火すると考えている。実際にこの神事がなぜ叩かれるか?と言えば、薬殺された馬が1頭いたというのも原因の1つだろう。
普通に生きている人がこのニュースを知ったときに抱く感想のひとつとして「競馬で脚が折れた馬って生きられないって聞くよね。なら競馬も廃止にするべきじゃないか?」となるはずだ。

レース中に骨折、その後に予後不良と診断されて安楽死を余儀なくされるケースが発生することも競馬でまれにあること。
これは公営ギャンブルだから良くて、神事に使われる馬が骨折して薬殺されるのはダメというのは、話のスジが通らない。
どっちもダメだろ!競馬なんか廃止にしてしまえ!という人のほうが、至極真っ当な考えではないかと思う。
そしてこの批判が行き着くところは、現在の競馬~そしてそのあり方になるのではないだろうか。
少なくとも僕はそう考えている。

ただでさえ、僕は引退競走馬の大多数が肉になっているという現実を知っている。

それは以前、この記事に記した通りだ。

こういう背景がどうしても存在している以上、競馬という公営ギャンブルが叩かれる可能性は大いにある。
いつ競馬叩きが始まるか?
それは読めないし、出来ればそれが来て欲しくないと願う僕がいる。だが、考えておく必要はあるだろう。
ただ、それでも僕は競馬が好き。
競馬廃止!という人の気持ちも分かるんですが、それとこれとは話が違ってくる。
矛盾してますが、僕の好きな競馬をずっと続けて貰うために、否定派のことも理解しなければならない。そう考えてこの記事をまとめています。

まず、競馬でよく動物愛護団体の標的にされて叩かれているのは「ばんえい競馬」だろう。
重たいソリを引いて、ムチでしばかれ、坂を登らされて可哀想だ。と思う人が少なからずいる競馬であり、能力検査(能検)の際に、騎手が倒れこんだ馬を蹴る所が映ってしまい炎上。苦情が殺到した。

帯広市議会 会議録より

そして、動物愛護団体が合同で「ばんえい競馬廃止を求める要望書」を提出したというのはニュースになった。

もちろんこんな記事を読んで下さる人は知っていると思うが、能検に合格しなければ、レースに出場することは出来ない。
ちなみに、騎手が蹴った馬であるドウナンヒメはその後能検に出場することなく、登録が抹消されているようだ。
能検に合格しなければ、レースに出られない訳であるから、馬主に見切りをつけられてしまう可能性は高くなる。
それを厩舎関係者・乗り役は痛いほど分かっていて、蹴ってでも起き上がらせて障害を越えさせることで、今回の能検はダメでも次回の能検で合格させたい、その為にはここで諦めさせる訳にはいかない。という思いがあって直接的な手段に出たのだろう。ばんえいの競走馬にしてやりたい。そういう気持ちがあの行動を起こさせたのではないだろうか。
もちろん、顔が下の地面について鼻に砂が入ることも阻止したいという気持ちがあったのは言うまでもない。
馬にとっては生き延びられるか肉になるかの瀬戸際である能検という舞台において、あの行動は虐待だという議論が入り込む余地はあるだろうか?

帯広市議会 会議録より

動物愛護団体が提出した「ばんえい競馬廃止を求める要望書」の末文にはこう記されている。「ばんえい競馬の廃止を決断し、ばん馬を廃馬にすることなく余生を全うさせる手段を検討していただきたい」と。
それならば、ドウナンヒメを引き取り「この子は能検で騎手に蹴られた可哀想な馬です。もう二度とそういうことが起きないようにして欲しい。ばんえい競馬反対!即刻廃止!」とやれば、多少は同調してくれる人が居そうだが、それはやらない。そもそもドウナンヒメが登録抹消になったことすら触れていない。
残念ながら「ばんえい競馬廃止を求める要望書」を提出した動物愛護団体がやっている活動は現時点でそこ止まりだ。
あの能検を見て、話題になったから自身の知名度を上げるために動いただけに過ぎず、責任を取ることはない。
すなわち、動物愛護団体も競馬を本気で辞めさせたいとは思っていないことになるのではないか?
人気の高タンパク低カロリーのドッグフードに使われている馬肉は引退競走馬の肉だと知っているはず。
競馬がなければ引退競走馬もいなくなって、犬のエサに困るかもしれない。その為、競馬に関してはそこまで反対しないのだろう。と勝手ながら僕はそう思っている。
ただ、動物愛護が叫ばれそれに同調する支持者が増えると、より一層直接的な手段に打って出てくる可能性はなきにしもあらずだろう。

だがしかし、今のところで言えば動物愛護団体がいくら抗議してきても、馬券の売り上げ自体がそれなりに堅調な売れ行きで推移しているため、競馬を開催する主催者側からすれば廃止するメリットがなにひとつと言っていいくらいに無い。

競馬を行うことで観光需要もあり経済効果も期待できる。衆議院の農林水産委員会においてもこのような言及がなされている。

衆議院 農林水産委員会 令和4年11月2日
泉田裕彦議員の発言

そういった意味で言えば、ばんえい競馬以外の競馬が叩かれた時でも、それなりの売り上げがあれば、廃止にならないはず。動物愛護団体からの廃止の要望があったとしても、経済効果を考えれば即廃止には繋がらない。それは、動物愛護先進国であるヨーロッパでも競馬が開催されていることからもよく分かる。

ただ、20年後、30年後、50年後、100年後にどうなるか?それは分からない。
JRA厩務員課程の志望者も年々減っている。どの業界でも人手不足は言われているが、競馬においてもそうだ。そして、度々明らかになる不祥事。言いたくはないが、競馬のあり方について叩かれる材料は揃っているのが現状だろう。

競馬に対する悪い印象が流れ、皆から競馬そのものが敬遠されてしまい、馬券が買われなくなれば、必然的に売り上げは下がる。そうなった時、レースの賞金を下げざるを得ない。出走手当も減額されるだろう。そうなれば、馬を買うオーナーにしても旨味が少ない。馬を買う人が減っていってしまう。そうなれば馬の値段も下がり、儲けにならない馬を生産しても仕方ないので畳む牧場もあるだろう。玉突き式に業界全体が縮小されていってしまうであろうことは、僕の少ない脳味噌でも容易に想像出来る。

その際に、もし競馬廃止論が議論のなかで出ていたら?廃止しても影響が少ないと判断されてしまう可能性もないわけじゃない。
20年、30年、はたまた50年から100年と長いスパンで見たときにどうなるか?それは誰にも分からない。なんだかんだ言って競馬は続いていくような気もするが、これは希望的観測で、その保証はどこにもない。 
堂々巡りになって結論は出せないが、いつまでも考えることが、今の僕たちにとって必要なことではないだろうか。

ただ、1つだけハッキリしてるのは、競馬に反対する人と、競馬に賛成する人。この両者がいがみ合っても仕方ない。
理解できないと突き放すことは簡単だが、それではお互いの溝が深まるだけだ。何の解決にもならない。
競馬反対と叫ぶ人がいるなら、意見を聞いて妥協点を見つける。反対といくら叫んだとて、現実的に言ってしまえば競馬は行われるのだがその中で意見を聞いてあげることは重要だ。
話を聞いて折り合いをつけないと、競馬反対派の中で先鋭化した人が競馬場のパドックで出走する馬に向けて、発砲する可能性もある。競馬を中止させるためには多少の犠牲はやむを得ないとかいって、やる人がいても不思議ではない。
今の日本は、元総理大臣が射殺されてしまうような国だ。安全ではない。そして、そういう事件が起こってからでは遅い。

答えは人それぞれの価値観で異なるだろうから、全員が納得する答えを出すことは出来ない。だからといって、否定派を蔑ろにすると何かがあった時には強烈な批判を受けることになる。
そして、それは否定派にとってシンパを増やす絶好の機会だろう。彼等のほうが否定ということにおいては話のスジが通っているから。ただ、全体を俯瞰で見た時に違和感を感じる。この記事で上げたドウナンヒメ、今や誰もが忘れている存在だろう。
叩けるだけ叩いて、喉仏過ぎれば熱さ忘れる。僕もそうだが、責任を取らないから。
責任を取れないからこそ、僕は変なことを言わないようにしている。

追記

引退馬協会が、声明を発表した。
内容はリンク先から見て頂ければ分かることなので、このページでは説明を省くが、個人的な意見を言わせて貰うなら「社会通念上」という言葉を使うなら、将来僕が危惧してるように競馬が虐待であるという風になった時、どうするのか?そもそも競馬は「社会通念上」容認されているのか?
それだとするなら、おこがましいだろう。
競馬も虐待であるはずだ。ただ、それでも行われているのは経済のためという人の都合だ。そして人の都合で祭りが開催されている以上、競馬のことを棚にあげて言えない。
神事は虐待だと言われて、競馬はそうじゃない。何故か?動くカネの桁が違うから。
社会通念上というのは、社会一般の常識と定義されるもののはず。常識というのは、一般人の持つ考えと定義されるもので、今の日本には一般人が馬を見る、触る、乗る。そんなことが出来る場所なんてなかなかない。
要するに、一般人が馬のことを知ることが出来るか?その判断が出来るか?知らないのに出来るわけがない。
それなら、そっちは虐待でこっちは虐待じゃないよ。と説明したところで話のスジが通らない。
僕は競馬が好きであり、これからも好きで居続けることに変わりはないが、結局のところどうなの?と言われた時に、明確に競馬は虐待ではないと説明できるモノを持ち合わせていない。

その為、僕の結論としては、競馬も虐待である。ということになる。
ただ、それでも競馬が施行されているのは、経済のためであるから。
そして、経済のためとは言え虐待は虐待であろう競馬に間接的とは言え、携わっておきながら馬を使う他の団体に対して、その行為は虐待です。と他者に言う資格は無いと僕は思っている。
ただ、現在の競馬界における引退馬協会の役割は大きく、これからも付き合いを続けていかなくてはならない。
なかなか難しいことだろう。この記事をまとめていて、矛盾点が多いのも自覚している。
ただ、競馬をする以上、その矛盾を分かってなければ出来ないと感じている。
人は生まれながらにして、考えることが出来て反省も出来る。そして生きていく。
0か100かの答えが正解とは限らない。競馬もそうだし、人が生きるというのは得てしてそういうものだろう。
それでも僕は楽しむ。競馬が好きだから。
これは罪だろうか。
答えは出ない、そして出せない。
きっとこのまま、僕は死んでいく。
ただ、馬の在り方について考えることが、命を懸けて走ってくれる競走馬に対して、僕が出来ることではないだろうか。

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