厩~part.1


まえがき

筆者紹介

日本には、中央競馬と地方競馬が存在している。そのなかで、いつもスポットライトが当たるのは中央競馬だけど、地方競馬の「魅力」に取りかれてしまった筆者。
憑かれるの漢字「憑」は、馬に心って書くじゃん!とおかしなことを言い出す人の馬券はちっとも当たらず、好きなだけでは馬券が当たらないを体現している。
ただ、目の前の馬券的中を追いかけるより、その先を見ているので、当たらなくてもね…という心のガードを敷くことで、現実から逃げている。
競馬以外の趣味は、スーパーのチラシを隅から隅までチェックすること。コンビニの新商品を調べること。音楽を聴くこと。

「朝は早い」と言うけれど…

「馬の仕事をやってます。」なんて、他人に言うことはそんなに無いけれど、よく聞かれることの1つで、やっぱり馬の仕事って朝は早いんですか?と質問される。

筆者は以前、新聞配達のアルバイトをしていた。新聞配達と言えば、朝方(3~4時)あたりにバイクで配達している印象が誰しもあると思うが、実際に僕が経験した新聞配達の場合は、終電で帰ってくる会社勤めのサラリーマンと、はち合わせになるような時間帯(0時半~1時過ぎ)には、もう新聞を配り始めていた。
配り始めていたということは、すなわちその時間には、新聞が印刷所から販売所に到着して、新聞に折り込みチラシを入れ終わって、受け持ちの区域へ向かって配達をしていた訳だから、実際に動き出すのは日付が変わる前だ。
新聞配達も朝早いと呼ばれる仕事だが、実際に動き出すのは真夜中。これと同じで、馬の仕事も真夜中から始まるところがある。

例えば、中央競馬の場合だと平日の調教なら「馬場開場時刻」が時期によって決まっている。5時・6時・7時の3パターンが基本だ。(5時半・6時半の場合もある)
もちろん、馬場開場時刻が5時なら馬の世話をするきゅういんは、それより前に来て、これから調教に向かう馬の運動を行っていたりしなければならない。実際に勤務開始となるのは、馬場開場時刻の2時間前くらい。5時開場ならきゅうしゃには、3時に集合となる。

ちなみに、これはまだ「可愛い」ほうだ。
僕の好きな地方競馬では、真夜中の0時台に馬場での調教が始まっている所もある。
0時に調教を開始させようと思えば、最低でもその1時間少し前には動き出さなければいけない訳で、22時半~作業開始だとすれば、これは朝の仕事と呼べるだろうか?と、疑問に思ってしまった。
もちろん、生産・育成・競馬場は全て違って求められることも違う。生産牧場なら、朝日が昇る時間から動き出すと仮定して、それが育成牧場となれば少し早まり、競馬場になればもっと早くなるというのがこの世界。
そして、このことはあまり知られていないことでもある。「馬の仕事は朝早いよね」と言われるけど、実際のところはどんな形態の牧場か?で異なる。競馬場になってきたら、朝になるとだいたい仕事が終わるように動いているというのが、正直なところ。

馬が好きか?競馬が好きか?

言わなくても分かることだけれど、競馬の仕事=動物に関わる仕事 だが、動物に関わる仕事をする上で、その動物が好きかどうかも、問われてくると思う。ただ、好きなだけでは仕事をやれない。この辺りが難しいところで、競馬の場合は、「競馬が好き」なのか「馬が好き」なのかで変わってくるように思う。競走馬(サラブレッド)は、競馬で走ることを目的に生産される訳だから、競馬が無ければ産まれてこない命であると言える。

競馬で走る馬のなかには、正直な話「出走手当」を稼いでくればいいという馬も居る。
中央競馬のように、賞金が高くて預託料も高いなら、1つでも上の着順を目指したい…と、言いがちだけど、実際のところはそうでもない。中央競馬の場合は、勝たなきゃ所属クラスが上がらない。逆に言えば、勝たなかったら同じクラスに居続ける訳だ。新馬 or 未勝利戦で1勝さえしてしまえば、1勝クラスに居続けることが可能。そして勝たなきゃクラスが上がらないのだから、上のクラスに行けばしんどいけれど、現級ならやれるという馬なら、勝たなくていいとする場合もあるが、これは「出走手当」狙いではない。あくまで、これは「賞金」狙いだから、出走手当狙いとはまた別とする。

出走手当狙いは、基本的に地方競馬であることで、勝てそうなら勝ってくれるのがいちばん良いけれど、基本的には2週間~1か月に1回のペースでレースに出る訳だから、毎回万全の調子で走れる訳もない。
逆にこういう馬が、走れなくなったときは「はい」にされてしまう現実がある。廃馬と言っても、どうなるかは様々。肉になる馬もいれば、乗馬クラブに拾われる馬もいる。そのあたりは、その時の運命次第。
勝って賞金を見込める馬ならば、「一度、抜いて休ませましょう」と調教師から進言されるケースもある。※ 「抜いて」は、ガス抜きの意図があると思われる。出走登録を見送ることを抜くと言ったりする。
ただ、この時に調教師と馬主の関係もあったりする。調教師はいかに馬房を上手く回して成績を上げるか?という営業がいちばん大事だと僕は思っている。そして、馬主はどれだけ馬を持っているか?でも調教師の対応が変わってくるように思う。
「出走手当」狙いの馬主は、馬を大量に保有していて、厩舎から1頭出る馬がいたら、そこに1頭入れるということが出来るはずだ。要するに、調教師側の営業は馬主を押さえるだけでいい。その代わり、馬の質という面では下がるかもしれないが、馬房に馬が入っているなら預託料はしっかり確保出来るし、厩舎経営の計算は立ちやすいと考える。そのぶん、預託料の値下げをやっているかもしれないとは聞くけれど。
逆に、小頭数しか保有していなくて実質、出走手当狙いの馬しかいない馬主が、調教師からしてみたら、いちばん要らない存在なのかもしれない。もちろん、人間付き合いで損得勘定を越えたやり取りがあるとかなら話は別だが、調教師からしてみたら旨味が少ないし、付き合いも大変なことも事実。そして厩舎経営は安定しない。やはり、勝ってナンボの世界だ。

こういう世界を知った上で「馬のことが好き」と言えるか?と正直、僕は思っている。今でこそ、動物愛護の観点から鞭の回数だったり、なんだかんだ言われるようになったが、少なくとも馬が好きなら競馬に反対すべきだと僕は思っている。

だからこそ、僕は「競馬が好き」だ。
この答えに辿り着くまでは、長い時間がかかったけれど、今はこの考え方だし、こう考えないといけない気がする。
単なる動物として馬が好きならば、それは競馬でなくても良いだろうし、むしろ競馬が施行されることについて、反対するべきではないのかと個人的には考えている。

覚悟

地方競馬の厩務員をやっていたら、今まで世話してきた「競走馬」が「廃馬」に変わるシーンを見ることもある。それは、競馬場に馬を引き取りに来る業者がいて、そのトラックに馬を積み込むのは「厩務員の仕事」でもあるから。
前項で「出走手当」の話をした際に、走れなくなった馬は~という話があったことをここで解説したい。
1頭の競走馬がいた。でもその馬は下級条件のレースでも勝てない馬。ただ、月に2回レースに出ていれば出走手当が出るから預託料と相殺されて、馬主がカネを支払う必要はなく維持出来る状態だった。ただ、そんなことも上手くは続かない。ある日、蹄鉄の打ち換えを行った際、神経に釘が触れたのかは分からないが歩様に乱れが出た。俗に言うところの「こう」だ。素人でも見てハッキリ分かるレベルでの跛行。今週登録のレースは使えない。ちょっとしたケガなら使えないこともないけれど、このレベルになると使えないのは明らかだった。
その時にどうするか?これは直接聞いた訳ではないけれど、どうやら馬主が預託料を払っていなかったそうだ。だからこそ、そのローテーションで支出ゼロをキープしていれば、とりあえずの持ち出しはないということで、調教師側からしてみても、とりあえず馬房を埋めておける存在として置いていたのかもしれない。だが、レースに使えないということはすなわち手当が入ってこない。手当が入ってこないということは、維持するのに支出が必要。勝てない馬を赤字で保有することは出来ないし、馬主が預託料を払わないなら「厩舎から出す」という選択肢しか取りようがないというのが、正直な話だと僕は思う。
実際、2、3日してどこからともなく馬運車がやってきて馬は積み込まれてどこかへ行ってしまった。
少しのめぐり合わせで、運命が大きく変わる。そういう現実を知った。
僕はこういう現実を知って、競馬のことは好きだけど覚悟が足りないと思って逃げ出した。覚悟を持つことが、厩務員の仕事には求められる。単に好きなだけでは勤まらないし、逆に嫌いでもなんとかなる可能性はある。
覚悟を持っているかどうかで変わってくると僕は思っている。
そして、僕はこの覚悟をファンにも持って欲しいと思う。もちろん、ここまで真剣に突き詰めて考えろなんてことは言わない。そして、これまで書いてきたことは体験したことだからこそ、こういうことを皆が体験出来る訳がないというのは分かっている。
分かっているけれど、目に見えるものと体験することは違う。もっと言えば、お客さんとして体験するのと、雇われて体験するのとでは違ってくる。
そのあたりを次は書いていきたい。

見えるものと見えないもの

競馬の世界は、見えるものを拡大して映すが、見えないものは徹底的に見せないように僕は感じている。
例えば、今年の日本ダービーを勝ったダノンデサイルは前走の皐月賞で、競走から除外となった。この理由は跛行だ。これは、G1に出るような馬だからこそ、チャンスがあるからこそ、除外にしてもらうように頼んだ訳だし、それでダービーを勝った訳だからファインプレーとして取り上げられた。これはいわば光の当たる部分・見えるものだと僕は思う。
逆に、地方競馬のC級条件であの跛行は、騎手がリクエストして除外にすると後で調教師から怒られるはずだ。「お前ビビってないで乗れよ」と言われるように思う。仮に、そう言われなかったとしても、歩様がおかしい馬でも乗ってくれる騎手はいる。乗り替わりを迫られるのではないだろうか。

これはいわば、見えない部分でこんなのは報道もされない。
そして、前項で触れたがレースに出ることが至上命題という馬もいるわけだ。もちろん勝つのは厳しいかもしれない。おそらくは勝てないと誰しもが分かっている。分かっているけれど、出ることに意味がある。そういうことは絶対に報道しない。だからこそ、知られないし、光の部分だけがクローズアップされるけれど、光があれば闇もある。

出血しゅっけつを知っているだろうか? 鼻出血は、競馬組合側にバレると出走停止を喰らってしまう。いわば、強制的に走られさせられない状況になる。1回くらいなら馬主側も目を瞑って、厩舎に置いて貰えるかもしれないが、2回目ともなればそうはいかない。
これを踏まえて逆に言ってしまえば、鼻出血がバレないように上がって来たら、出走停止を喰らうことなくレースに使えてしまうのも現実だ。
もちろん、走る馬ならば鼻出血を治す選択肢や繁殖に上げるという選択肢が取れる。だが、九割以上の馬がそうではないのだから、取れる選択肢は限られてくる。そして、鼻出血を治すと言ったが、屈腱炎と同じように治ったか治ってないかはよく分からない。
結果的には、だましだまし使っているというのが正直なところではないか。

光があれば闇もある。見えるものがあれば、見えないものがある。馬の世界にまつわる話は、どうしても美化されがちだ。

先日呟いたのだが、このエピソードもいい風に捉えたら「スゴいエピソード」になるけれど、もし自分が繁殖を預託している牧場でそんなことがあれば、管理体制はどうなっているんだ?と思わないだろうか。
ちょっとどうなのかなと、僕は思ってしまった。生きている・活躍しているから、あんなこともあったねというエピソードトークになるけれど、もし引かれていたら単に施設面の不備があった事故として報道されるのだから。



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