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他を救えるという幻想を捨てる

 最近湿気感が増すとともにかなり厳しい暑さが続きますが、いかがお過ごしですか?今回は“他を救えるという幻想を捨てる”というテーマでこれまでの経験から得てきた哲学についてお話したいと思います。


・生まれた瞬間から不平等、不条理な現実

 一時期、“親ガチャ”などというものが話題になりましたね。これはスマホゲームや街のショッピングモールに設置してあるガチャガチャなどで使用キャラクターや戦闘武器などのアイテム、キーホルダーなどのグッズを獲得する際、“何が当たるかわからない”というランダム性から生まれた表現ですが、“親ガチャ”とは要は、“不本意ながら容姿も経済力も能力も任意に選べず、遺伝や生まれて親の保持している経済力、能力等もランダムに獲得する”という意味ですね。つまりこの世界においては、生まれる瞬間から予測不能であり、不平等であり、不条理な現実を突きつけられるということです。勿論、容姿端麗、経済力もあるなど一見何不自由ない境遇に生まれるというケースもあり、不平等、不条理などあまり感じないというケースもあるでしょうが、生まれた瞬間から各々で”違う人生を生きる”という側面に理解の相違は無いと思います。極論すると、人以外の動物や植物、昆虫にも生まれる可能性もあるわけですからね。(人以外も含むため他人ではなく”他”と表現しています

・何故、不平等と不条理という概念が生まれるのか?

 不平等と感じる瞬間というのは、どういう時かと言うと、自分以外の他が存在するから生まれる概念なのですよね。ちょっと具体的な例をいくつか出してみましょうか。
ケース1:A君はお小遣いを500円貰った。B君はお小遣いを1,000円貰った
 まず一つ目の例ですが、ここに毎月500円のお小遣いを貰っているA君が居ます。A君は毎月お小遣いを貰った後、500円で大好きなお菓子一つ買ってこれまでとても満足できていました。ところがある日、A君の2倍の数のお菓子を楽しそうに買うB君が目の前に現れます、A君は自分のお小遣いの2倍の額を持つB君を目の前にして「僕の2倍のお菓子を買っている・・・」と格差を感じ、今まで満足していたA君はその後一つしかお菓子を替えない自分の状況に不満、不平等を感じることになってしまいます。つまり比較対象が現れたことによって、満足できなくなる訳ですね。皆さんもきっとそんな機会がこれまでの人生で何度か経験されてきたのではないでしょうか。
ケース2:鳥は自由に空を飛べるが、人は飛べない。
 日々の生活の中で、不平等と感じる対象は人だけではありませんね。「今週は仕事がキツいな、気の向くままにあの鳥のように空を自由に飛べたなら・・・」なんて考える事もありますね。
つまり、不平等、不条理と感じる要素やきっかけは、この世界に生きる限り無限に自分の周りに当たり前に存在すると言えそうですね。

・皆が同じ。この考え方は幻想であると理解する

 僕が生きてきたこの人生において、常に、皆が自由、平等の権利を得られるように自分以外の他人への思いやりや人助けの精神は様々な局面で意識に刷り込まれて来ました。勿論、人生における様々な”機会”というものは、自由であり平等であって欲しい、好きな街に住むとか、学校に行くとか、食べたいものを食べるとか。しかしながら、”機会”は自由で平等であったとしても、そこに経済力という財力制限が発生したり、健康状態・体力・体格などの身体的制限が発生したり、など比較対象となる他・他人が存在することによって制限は確実に発生し、”機会”が自由に選択できない不平等が現実的に発生します。そしてその制限の発生原因は、自己起因であったり、親族起因であったり、取り巻く人・環境、法的制度起因であったりと複数の原因によって発生している場合が多いのですが、皆が同じように”機会”を手にするというのは理想ではありますが、個々の様々な人生背景や現状を考慮しても、現実的には「どこまでいっても幻想だろうな」と僕は思います。「むしろ制限は当たり前にあるものだ」と認識することで、この手に得られた”機会”というものが、とても貴重で有難いと心から感じられるようになると思っています。そして不思議なことに、”制限”の存在を心から理解できた時、その制限から解放される道が開かれていきます。それはどういうことなのか?

・自分という人生制限を理解できた時、創意工夫によって解放が始まる。

 自由や平等を過剰に意識すればするほどに、他の存在や行動、価値観、保持している物質的な格差に振り回される”機会”が増え続ける一方で、”制限”を心から理解し覚悟を決めて生き始めることで、結局は自分に与えられた限られた手札を元手に創意工夫しながら人生に集中しない限り、行動しない限り何も変わらないという事が心から理解できるようになってきます。そして自分自身に集中した結果得られた小さな充実感や成功体験を積み重ねていくことで、使える手札も増えて、”制限”からの解放が始まります。例を少し出してみましょうか。
ケース1:友人から誘いを受けるか?一人でお気に入りのカフェで読書をするか?
 突然、友人のAさんから重要な相談があるから指定のカフェに14時に来てほしいと誘いがありました。友人Aに嫌われたくないあなたは、突然のAさんからの誘いに同意して、カフェに向かいました。最初はAさんからの仕事を辞めるかどうか迷っているという相談に親身に乗っていましたが、だんだんAさんの職場のスタッフの単なる愚痴になり、気づけば2時間ほど聞かされて、Aさんはストレス解消に満足してスッキリした顔で帰って行きました。あなたは散々愚痴をぶつけられて、ぐったりとして帰宅しました。そして帰宅後に「行かなくてもよかったな・・」と自身の選択ミスへの後悔があなたを苦しめます。もしAさんからお誘いがあった時、「突然の誘いなのだから、当たり前に断られるという“制限”がAさんに発生するものだ」と思えていたら、「今日はお気に入りのカフェに行って、大好きな●●さんの小説をゆっくり読むから誘いは断ろう」と容易に決断できたのではないでしょうか?この考え方に自然にたどり着くには、やはり”制限”というものがしっかり自覚できているか?にかかっているのだと思います。

  • 寿命という“制限”を心から理解できているか?

  • 1日24時間という“制限”を心から理解できているか?

  • 未来に保証はないという“制限”を心から理解できているか?

上記が理解できているならば、あなたは自分が今日やりたいと思っていたカフェでの読書を即答で選べるのだと思います。また別の選択肢として、「一時間なら付き合えるけど、そのあと用事があるから15時までならOK」とはっきりAさんに条件を提示できているでしょう。それが嫌味なく、自然にできているとすれば、あなたは自分自身の”制限”を理解し、制限の中で”Aさんも助け、自分も納得できる時間を過ごす”という創意工夫がしっかり意識されていることだと思います。

・自分以外の他人を救えるのは誰か?”助ける”と”救う”の違いについて

 ”制限”の存在が心から理解できてくると、更に”助ける”と”救う”の違いが理解できるようになってきます。例えば自分自身が経済的に困窮した時、近しい誰かが生活費の援助をしてくれた。これは生活費を援助してくれた親だったり、友人だったり、親交がある誰かのおかげで”助けられた”という状態ですが、イコール”救われた”とならない場合があります。それはどんなケースかと言うと、貧しい中で経験を積んで何が起ころうとも人生を自分自身で切り開こうと奮闘していた最中に、世間体を気にした両親が頼んでもいない援助を本人の見えないところで対応してしまうというケースなどです。この場合”助けられて”はいても、自分の意図した人生とは違う方向に向かってしまい、”救われてはいない”という場合が発生する。両親は困窮するあなたを”救いたい”と思い行動をしているわけですが、当の本人は”助けられた”ことこそあれ、”救われてはいない”となります。僕自身は経験からやはり、どこまでいっても、自分以外に自分を救えるものはいないという結論に至ります。更に例を挙げると、何かしらの災害にあってがれきに挟まれて身動きできず、レスキュー隊に”助けられ”はしても、「何としても生きてやる!」という本人のあきらめない意志が自分自身を「救う」のだと思います。このケースでもやはり”救う”のは自分自身です。

・他を救えるという幻想を捨てない限り、現実は見えず、成長もない

 様々な例をまじえながら、ここまで僕の考えを語ってきましたが、人はどこまでいっても他人も他も”助ける”ことはできても、”救う”事はできないのだと思います。”救う”、”救える”という思想は、置かれている状況、相手の人生背景や、これまでの境遇、経験、感性を無視して、もしくは誤認して、自身の理想や価値観を相手に半ば強引に受け取らせる行為になりかねないことだと思っています。
表現を変えて説明するならば、自己満足であり、おごりのように感じています。それは“自分の思想こそが正しい”という事に裏打ちされた考え方であり行動の場合が多いからです。つまり「こうすればあなたにきっと救われたと思ってもらえるでしょ」という思想に基づく行為ということです。勿論、「救われた!」と心から感謝する方も居るでしょうが、「有難迷惑だよ」と思う人も居るのが現実です。”そして今現在も誰もこの世の理を解き明かした者はいない。”だからこそ、”救える”という幻想を捨てて、ケースバイケースで”助ける”ことに徹する方が上からでもなく、押し付けでもなく各々の人生の質を変えるきっかけやお手伝いが自然に行えるのではないか?と僕は思うのです。救われたかどうかは、他人様や他(モノ、自然、動物、昆虫など)が判断すれば良いのです。だからこそ、”救う”などと簡単には言えないのですよね。簡単に言えないことだからこそ、状況を見極めてそれを容易に口にしないことで成長があるのだと思います。勿論これは僕自身の経験から導き出した一つの考え方ですから、「この考え方には賛同できない」という方々が当たり前に居てよいのだと思います。でももしお読みになった方が、明日から世界と、他・他人との向き合い方のヒントになったなら嬉しいです。
今回はこの辺で。最後までお読み頂きありがとうございました。


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