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電車の中でも世界が見える

今日は日常から世界を探求・考察するという観点でお話したいと思います。

電車の車内はサイバー空間の住民がほとんど

 普段よく電車に乗って移動される方も多いと思いますが、コロナ禍以降僕は二駅、三駅くらいは自転車での移動が中心になり、最近あまり電車に乗らないのですが、時々乗車すると改めて気づかされることがあります。まずざっと周りを見渡すと7割~9割の人たちがスマホに釘付けということです。これはもう日常の風景になってしまっているので、あまり意識して気にしている方は少ないと思いますが、各々がスマホで何をしているのか?実際にちらっと画面が見えたりすることもあるのですが、整理するとこんな感じではないでしょうか。

  •  友人、家族、恋人、会社の上司、同僚とのメッセージのやり取り

  • SNSを使って匿名情報発信もしくは情報閲覧をしている。

  • Youtubeで動画を見る

  • ゲームをする

  • 何かしらの必要な情報や今気になる情報の検索をする

  • 音楽を聴く

  • 語学の勉強をする

  • オーディオブックで音声読書をする

  • 電子書籍を読む

  • 思い浮かんだ考えやアイディア、などをメモ帳に整理する

  • 売買取引をする、株の取引をする

  • 仕事をする、仕事の準備をする

つまりほとんどの人たちの意識はその車両内にはありません。皆それぞれのサイバー空間に居るということです。つまり周りはまず見えていません。それはそうですよね、意識はここに無いのですから。つまりそこには“自分”しか居ません。それが満員電車の場合何を引き起こすか?

  • 人によってはスマホを両手で使えるようにするために、つり革や手すりにはつかまらず、他人をストッパー代わりにする(移動時の揺れを他人に寄りかかり、他人の身体で吸収する)

  • 操作しやすいように、無意識にパーソナルスペースを確保するために左右に肘を張り、スマホを操作する(満員電車なら他人と触れたくないという潜在意識もあるでしょうが)

  • 当然ですが、画面に集中しているため、周りの状況に配慮は難しい(それを逆手にとって周りに配慮したくない、気を使いたくない、気付かないふりをしたいという場合も多いでしょう)→つまり他人に関わりたくないという強い欲求の発動

  • スマホを操作しているその場所はパブリックスペースではなく、強力なプライベートスペースになる。

勿論スマホを使っている全ての方々がこれに当てはまると思っていませんが、上記のような状態を僕は“同罪依存”と定義しました。
“同罪依存”=“人に迷惑がかかる場合もあるけど、みんなやっているのだから、自分もやってもOK”だよね?だってスマホいじってないと落ち着かない・・・
同罪依存という意味においては、スマホでいきなり始まった現象でないことは世代によってはよくお分かりいただいているかもしれません。僕の記憶では、

  • 新聞・雑誌を大きく広げて読む行為

  • 音楽を大音量で音漏れをさせて聴く行為

  • 携帯ゲーム機を持ち込んで遊ぶ行為

  • 化粧をする行為

  • 飲食をする行為

  • ベビーカーを折りたたまずそのまま乗り付ける行為

などスマホ以外でも混在状況などにより不快に感じる行為はスマホ登場以前からあると思います。スマホだけが“同罪依存”と言うわけではないですが、スマホに関してはちょっと異質な存在だと個人的には思っています。スマホ使用以外の行為は限定された個人欲求実現の世界の住人になるだけだったのですが、スマホは確実に個人のプライベート空間をその場に構築してしまうほど多様な機能が包含されています。まるで外付けHD(ハードディスク)のごとく、外付け拡張仮想脳と言ったところでしょうか…。数インチの画面内に個々の好みの世界を現実世界を遮断して構築できます。一日何時間もスマホをいじり倒す方々は結果的にほぼサイバー空間の住人になってしまうわけですね。現実に目を向ければ、過酷な労働、賃金環境、煩雑な人間関係、上りづづける税金、物価など現実逃避、ストレス解消をしたくなる気持ちは痛いほど理解できます。つまり例え電車の中で日常目にするワンシーンであっても世界の世相が見方によって透けて見えるということです。

一事が万事だという意識

 普段から積み重ねる行動はやがて習慣化され、脳のエネルギーの消費を抑制するために自動運転に移行します。(あれだけ練習して転びまくった自転車の運転が無意識にできるように)極端な例かもしれませんが、今人は確実に機器を生活のために使うというよりも、機器に合わせるように生きることをいつの間にか選ばされて生きているように感じます。(僕自身も日々それを感じていて、Xなどにいくつか投稿している際にハッと我に返ります..。)一度便利を手にしてしまうとそこから受ける報酬を手放すのは難しいのですが、時には機器から離れて自分自身と向き合うことで、自分の周りを取り囲む人、モノ、自然等を意識することで人の有り様を再認識して人に戻ってきている気がします。もしかしたら、電車の車内などは逆に情報だらけの社会の中で、あえて何も考えずぼーっと過ごして脳をクールダウンする時間に充てるという方が良いのかもしれませんね。一事が万事、選択したものがその人自身の習慣を構築してしまうという厄介な側面ですね。
ということで今回は日常のシーンから世界を考察してみました。最後までお読みいただきありがとうございました。

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