石灰

Mさんが運転するトラクターがうしろにのせているパレットの上の、大量の石灰の上に座り、サングラスをかけながら、あたたかい日差しと風の冷たさを感じていると、いま自分は健康だ、と思う。仕事が農業でよかった。とても念入りに探して見つけた場所は人も環境もいい。それは自信を失わずにいられる要因のひとつだ。だけどいつのまにか適応障害になっていた。去年の秋ごろからかそれ以上前から。初診さえ受けられていないけど、自分で自分をそう思ったなら誰かが間違いだと言えるはずがないし、というか言わせない。ずいぶん長い間「かもしれない」で終わらせてきたものの、そうやって決めてしまえば、すこしは前を向ける気がする。自分はがんばってきたしこれからはもっと弱さを盾にしたっていいんだ。日記を読み返していると乱れた鬱状態を見つける。泣いている私は好まれない。好きになってもらえない。困られる。嫌われるかもしれない。泣いている自分が自分なのにそれを見せることはできない、それで自分になれない、だから自分を見失う。泣いている自分を自分のみの時間に押しこめる。自分だけが知っている。これをいつか笑いごとにしないといけない。泣くだけの時間ばかりがある。それが自分なのに。…自分がいけないのかもしれない。私のできるやり方は全部まちがっているのかもしれない。…一人で泣いているしかない。それを教えるといやがられるから知ってさえもらえないまま、ずっと泣いて、それが自分の時間になって、でも言えないから自分のことが言えないということだ。

風に飛ばされないように帽子をおさえて、地面の悪さに身をまかせて揺れていると、ハウスの横で作業をしているパートさんたちが手を振ってきて、まるで遊園地の子ども用の列車に乗っている気分になる。巨大なタイヤは水たまりの中で水車のように回る。泥が飛んできていやだけど、しかめ面をする気にはならない。

石灰。

画像1

とってつけたような笑顔。
ブドウと花だけ自我がない。


おわり。

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