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「私は心が美しいから」は甘え? 恋愛資本主義社会で生きていくための条件とは

いつかの講義で、教授が面白い話をしていた。

その教授が大学3年のころ、同じゼミに彼のことが好きな女性がいたらしい。しかし、その女性は太っており、お世辞にも美しい見た目とはいえなかった。

あるとき、その女性と同じ電車で帰る機会があった。そのときに「私、心がきれいな人が好きなんです」と言われた。

教授は、これを「私は心のきれいな人が好き」→「だからあなたも、私の見た目じゃなくて、きれいな心をみてほしい」というメッセージだと解釈した。

そして、「いやでも、世の中に顔も心も両方きれいな人がいるじゃん」と返したそうだ(一応、この発言は若気の至りだったと反省している)。

その女性が本当に教授のことが好きだったのか、教授の人格は大丈夫なのか、といった問題は一旦考えないことにして、教授の言ったことが本当だと考えてほしい。

この話には、おかしな点が2つある。

まず1つめが、「私は心のきれいな人が好き」→「だからあなたも、私の見た目じゃなくて、きれいな心をみてほしい」という論理。

そして2つめが、心の話をしているのに「顔も心もきれいな人がいる」という、見た目に関する評価が登場したことだ。

今回は、恋愛資本主義という言葉を用いて、この会話の意味について考えていきたい。


「きれいな心」を見てもらうには

論理の破綻

では早速、1つめの話から考えていこう。

当たり前の話だが、「私は心のきれいな人が好き」→「だからあなたも、私の見た目じゃなくて、きれいな心をみてほしい」という論理は成立しない。

なぜなら、自分がどんな人を好きかということは、他人の好みとは何の関係もないからだ。いわゆる、「私もこうなんだから、あなたもこうしなさい」というタイプの押し付けである。

彼女がこうした発言をしたのは、見た目では他の人に敵わないから、中身で勝負している、もしくは、そもそも見た目で勝負するという土俵に立たない、という宣言とも捉えられる。

恋愛資本主義について

ここで考えたいのが、恋愛資本主義という言葉だ。

これは、『萌える男』という本の中で、著者の本田透が作り出した造語である。

用語の意味を簡単に説明すると、見た目や年収、ファッションといったステータスで、恋愛における魅力が決定される社会のことだ。イメージしづらければ、婚活市場を想像してもらうと良いだろう。

痩せた身体を手に入れることや、高い服を買うこと、社会的ステータスを上げるためには当然お金がかかる。

このプロセスに、マスコミや企業が参入し、

「モテたいなら筋肉をつけろ!」
「今年の流行ファッションは○○!」
「モテる男/女は○○をしている!」

といったような煽り文句をつけ、自社の商品を売り出す。

これが、彼の指摘する恋愛資本主義の構図である。

ドロップアウト宣言?

さて、女性に話を戻すと、「私は心のきれいな人が好き」という発言は、ある意味でこうした恋愛資本主義からのドロップアウト宣言だ。

これを、「だからあなたも、私の見た目じゃなくて、きれいな心をみてほしい」という主張に捉えるとおかしくなってしまう。

だが、「私は見た目を基準とする恋愛資本主義の世界から脱却し、心の美しさを基準とする世界に移り住んだのです」というように捉えれば、意味としては十分に成立する。

避けては通れない「見た目」

突然だが、冒頭の話の続きをしよう。

どうやら、教授は彼女のだらしない見た目から、心もきれいではないと判断したそうだ。「心がきれいなら、ある程度見た目にも気をつかうはず」教授はそのように言っていた。

この発言も、なかなかに興味深いとは思わないだろうか。

見た目という基準から脱却するために、心の美しさという基準を設定したのに、心のきれいさを示すためにも、結局見た目が必要なことになってしまっているからだ。

つまり、彼女が思い浮かべているような「心の美しさだけで魅力が決まる世界」は、そもそも存在しなかったということだ。

実際、見た目によってその人の性格が悪く見えてしまうことはあるし、それを棚に上げる発言をすれば、だらしなくて傲慢な人と思われてしまうだろう。

私たちが思っている以上に、恋愛資本主義が及ぼしている影響は強いのだ。

高卒ライン=清潔感

だが、全ての人が見た目や社会的ステータスに、資源を注ぎ込めるわけではない。では、恋愛資本主義社会で劣っていると見なされる人は、どうすればいいのだろうか。

私の考えになってしまうが、「清潔感のある人になる」ことが、最も現実的な解決策だと思う。

具体的には、標準的な体型を目指したり、清潔な服をきたり、余裕があれば髪型やファッションにも気をつかうということだ。

ハイブランドの時計やバッグなど、上を見ればキリがないが、少なくとも清潔感のある見た目なら、ユニクロや(男性なら)1000円カット、規則正しい生活でどうにかなる。

こうすれば、少なくともだらしない人間だと思われることはないので、「心の美しさを基準に考えるべき」という主張も、聞いてもらいやすくなるだろう。

この感覚は、「学歴」と似ている。

「学校なんか行かなくても充実した人生を送ることができる!」と主張することはできるが、やはり学校である程度のことを学んだ人でないと、発言に説得力が出ない。

東大やハーバードまで行く必要はないとしても、少なくとも高校ぐらいは出ておく必要がある。

これと同じように、「見た目なんか関係ない!」という主張に納得してもらうためには、高卒ラインである清潔感のある見た目が必要、ということだ。

そのラインを満たしていなかったがために、彼女の発言は言い訳と捉えられたのである。

2つの「心のきれいさ」

身も蓋もない正論に思えるが・・・

さて、2つめの話についても考えてみよう。

「いやでも、世の中に顔も心も両方きれいな人がいるじゃん」

この発言は、身も蓋もない正論のように思えるが、この発言もよく考えると論理的に破綻している。

なぜなら、恋愛資本主義社会は「顔」「体型」「社会的ステータス」といった基準を独自に設定し、それに基づいてランクづけを行うため、どうしてもその基準を満たすことのできない人が出てきてしまうからだ。

ちょうど、現実の資本主義社会で貧困者が発生してしまう構図と似ている。

その人に対して、「世の中には金持ちの人もいるので、今の制度には一切問題はない!」と言ったところで、何の解決にもならないだろう。

つまり、正論であることは確かだが「顔も心も両方きれいな人がいる」というのは、まるっきり意味のない主張なのだ。

心はランク付けできるか

この発言は、完全に恋愛資本主義の考え方にのっとっており、「心のきれいさ」という指標までも、資本主義的なやり方でランクづけしようとしている。

しかし、彼女の発言がそうした価値観からの脱却を目的としていたと考えると、両者が使う「心のきれいさ」という言葉には、違いがあるのではないだろうか。

彼女の言っている「心のきれいさ」というのは、あいまいで数値化ができないものである。わかりやすく言うなら、その人の個性や道徳心だ。

反対に、教授が言っている「心のきれいさ」は、もちろん彼女が言った意味もあるだろうが、ある種のノブレス・オブリージュ的な、成功者だからこそ内面の魅力も際立つといった意味だと私は考える。

それは、100円の募金よりも100万円の募金を高く評価するといったような、資本主義的な意味合いも含んだ心のきれいさだろう。

彼女の基準では、金額よりも気持ちに重点が置かれるが、見た目と心を並列で考えるやり方では、このような比較が発生してしまうことになる。

心ない返答に感じた理由

彼女は、「見た目を基準にした競争はやめて、そうしたものが存在しない心に目を向けよう」と主張しているのに、「見た目の美しさが比較できるのと同様に、心の美しさも比較できる」という、恋愛資本主義に基づいた真逆の主張をしているのだ。

そのため、教授の発言がどこか心のない言葉であるように感じさせてしまっている。

私がもし教授の立場なら、「たしかに、私も心のきれいさは大事だと思う。でも、それを他人に押しつけるべきではないよね。」と言うと思う。

・・・もしかしたら、私の方がよっぽど嫌味な人間かもしれない。

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