見出し画像

Twitterでのフェミニストと男性向けコンテンツとの百年戦争について 7/28

普段ニコニコとTwitterで、楽しいニュースやかわいい猫ちゃん画像、そして晒上げたい面白人間の面白発言なんかを見ているワケですが、そこでちょくちょく見かけるのがフェミニストvs男性オタクトライブのセメントな殴り合い

フェミニストについてはウーマンリブから現在の連帯とかをサラリと撫でたり、文芸理論としてのフェミニズムを入門書で数冊読んだ程度の激烈門外漢なんですけど。

一方で、自分がオタクであるという自己規定はしていないけれど、秋葉原近辺在住でオタクコンテンツ界隈でも執筆する編集ライターで、深夜アニメの時評なんかも執筆してるデブのメガネとして、男性向けオタクコンテンツもどっぷり摂取している自分も認めないわけにはいかない。

普段は、セメントの殴り合いを横目に見て「ひゃーやっとるやっとるなー」とにやつく感じで、自分の問題としては受け止めていない一番蔑まれるべき態度をとっているわけですが、ちょっと以前手伝っていた仕事(女性向けライトノベル“TL”の下読みや編集補助)から生まれた個人的趣味から、女性向けの「文学製品(構造が類似したエンタメ製品群くらいの意味で感じておくれ。ラノベとかね)」の歴史とか構造が大好きだったりする。

そのあたりの情報をあさっていたら面白い論文を見つけたので、それを肴に男性向けコンテンツとフェミニズムの百年戦争についてなにか言ってみたり言わなかったりしてみようかと思う。見えてる地雷を踏みに行くスタイル。だが、自分の現在の理解を記すためにちょっと書いてみようと思う。

ハーレクインVSフェミニズムの批評の変遷

で、みつけた面白い論文は、尾崎俊介氏の「ハーレクイン対フェミニズム -フォーミュラ・ロマンス批評史をめぐる一考察-」で、なんなら今すぐこのnoteを閉じてこの論考を見てもらえればいいと思うんだけど。

まあ概略を言うと、アメリカの女性向け文学製品であるハーレクインに対してフェミニズムの立場からどんな批判が起きたかを60年代中盤くらいから時系列で追っているもの。

これによって、エンタメコンテンツに対してフェミニズムからどんな批判がありうるかというバリエーションと、その当時のフェミニズムの潮流がわかるという優れモノだ。読んだ限り、日本の男性向けエンタメコンテンツに対する批判もだいたいこれらのバリエーションになっているように思える。

詳しくはリンクから呼んでもらうことにして、ここでは最初一生懸命引用(元PDFがコピー禁止だったから目視しながらちまちま書いてた!)けど気が付いたら消えてたので、大雑把に批判のバリエーションを抜き出してまとめたものを列挙していく。

パターン1

ヒーローは暴力的でサディスティックな言動をとり、それに従順に従うことがヒロインの幸せであると描くロマンスは女性のために水増しされたソフトポルノであり、これが支持されてしまうことは、父権制社会下での男性の性的願望を助長させる。最終的にヒロインがヒーローの妻に収まることでハッピーエンドになるのは、女性が男性の支配を受け入れることで男性側に都合のいいファンタジーに屈することである。(Ann Douglasの批評を久保内が要約)

パターン1-α

ハーレクイーンロマンスが、ヒロインとヒーローの間での支配権の争いであることは認める。が、これはヒロインが愛の力で金と権力を持ったヒーローを飼い馴らす物語なのであって、勝者はむしろヒロインである。(Jan Cohnによる批評を久保内が要約)

この辺りが、ゴリッとしたラディカル(原理主義的)フェミニストの意見として、男性向けコンテンツに対しての批判としてTwitterでも流通しやすく、現状実際出回りがちな言説と言ってよいかと思う。

そのとき、男性向けコンテンツを消費している男性にとって、同じ物語構造や枠組みを持った作品はすべて差別的であるという主張として響くことになる。そして実際この批判によるとその受容の仕方は正しい。

さらに男性にとって面倒なのは、論理的にこの主張に対してある程度以上の正当性を認めざるを得ないことである。そのため、「例外もある」、「もっとひどいものもある」、「嫌なら見るな」、「たかがマンガに必死だな」と批判の矛先を逸らす戦略を採用せざるを得ない。「フェミニズムに反する表現をする自由もあるだろ」と、批判自体は認める言葉ながら、乱暴にちゃぶ台を大きくひっくり返すことで、ポリコレ棒でささやかな余暇を殴られてつぶされるイラつきを表明することになる。

で、この批評パターン1は実はそんなに女性間でも支持を得ることができなかったらしい。ぱっと見、よく分からない論理構造のパターン1-αのほうを女性読者は良しとして流通したという。

これ、男性の求める良妻賢母に収まったからフェミニズムの敗北で、男性をATMに飼い馴らしたからフェミニズムの勝利、のようにも見えてしまう。問題は本当にそんなところだったんだろうか? 

次の世代の批評パターン2では、ハーレクインを消費する女性読者の受容の仕方や逃避文学であるハーレクインの立場への注目へと批評の視座が変わってくる。

シリアスな文学よりもハーレクインのほうが女性の愛されることへの希求に対して真摯に回答しようとしている

パターン2

ハーレクインロマンスには、女性の恋愛願望を充足させることだけでなく成功願望も満足させる効能がある。女性の自己実現の道がほとんど閉ざされている現代において、女性が成功と満足を得るための現実的な方法は、どちらも持った男性と結婚することしか残されていない。その唯一残された現実的な夢をかなえるハーレクインが人気を集めるのは当然である。逆に言えば、悪いのは家父長制による男性支配の現状であり、その中でハーレクインに息抜きを求めるのは仕方ない(Ann Barr Snitowの批評を久保内が要約)

ずいぶんと優しい主張だ! 男性コンテンツにも援用できそうな理路でもある。

が、素直に敷衍したら、「強固に弱肉強食という男性の支配の論理に、負けたり乗り切れなかった男性には、既存のマッチョな経済競争がはびこる男性社会で自己実現や恋愛願望を充足させるすべは残されていない。そこで、戦わない/戦えない男性の自己実現の夢を叶える男性向けコンテンツは必要な逃避文学でありサプリメントだ」みたいになる。あ、これ、なろう小説が揶揄されている「負け組の慰み」まんまだ。男性原理に負けながらも捨てきれないおっさんには、この負け組だからストロングゼロでも飲まなきゃやってらんねぇだろが! に近い主張を大声で言うにはなかなか憚られるな……。

また、この理路だと、ハーレクインも男性向けラノベなどのコンテンツは、一般文学(実在するかはおいておいて)と比べて逃避向けのサプリメントとして明確に下に置かれることになる。

すなわち、自分の好きな男性向けコンテンツを擁護するためにこの理路を採用すると、自動的に自分の立ち位置が男性支配の社会からのドロップアウト組であることと、男性向けコンテンツは一般の文学に比べて劣位の存在であることを認めることになる。自分と自分の好きなものを下げることで得られる免罪符としての許しを良しとできる人は少ないだろう。

もちろん、ハーレクインもこの理論では「逃避のサプリメント」として免罪される立場として存在を許されるものという立場は免れ得ないように思う。

余談的批評紹介 ヒーローは実は母親だった!?

パターン3

支配的で傲慢なヒーローと、それに従属するように見えるヒロインの関係性がロマンスの基本構造であることは認める。が、このヒーロー像は単純に男性を指すのではなく、娘から見た母親の鏡像とみることができる。高圧的なヒーローが最終的に優しい保護者になるというストーリー展開はまさに母親的存在である。それゆえ、ヒロインが依存しようとしているのは父権的男性でなく母親的な同性なのだ。(Angela Milesによる批評を久保内が要約)

えーっとこれは、男性陣には説明が必要かな。これは、フェミニズム活動家で作家のケイト・ミレットが提唱した「シスターフッド」という女性間の倫理的政治的な共闘の輪という考えを睨んでの言葉だと思われます。

ライバルや競争相手、批判相手を激しく非難したり否定するのは家父長制の影響であり、女性同士が行ってしまえばお互いを引き裂きあうことになる。女性同士の連帯こそが現実を変えるのだという、女性による博愛(ブラザーフッド)のような考え方で、これにより(初期フェミニズムでは否定されがちな)女性セックスワーカーとの連帯などがなされてきたと理解している。

つまり、ハーレクインを愛好するような、「保守的」な女性も、フェミニズムにおいて同じ連帯の相手だとするためのウルトラCなんじゃないかな。多分ですけど

---

で、逃避文学として、一般文学から一番落ちたモノとして免罪されたハーレクインロマンスの作者や版元は、その批評を甘んじて受け入れたのか。

次は、自らをフェミニストと規定したハーレクインロマンスの女性作者たちが登場する。

変わりゆく女性読者の心理とロマンス表現

ハーレクインロマンスは、もっとも読者にウケのいい物語構造と、それにあったストーリーを女性読者に届けるために、徹底したリサーチを重ねることで、ほぼ同じ構造の小説を何十年と量産し、ヒットさせ続けてきた。

世の中にフェミニズムが浸透していくにつれて、その潮流を読んでヒーロー像をよりマイルドに優しくしたり、ヒロインが定職を持った自立した女性として描かれたりと時代の変遷に応じて変化を見せることになる。

それに呼応するように、1981年に開かれたアメリカのロマンス小説の著者たちの会合では「ヒロインをより成熟した女性として描くこと」「ヒロインの処女性を重視しすぎないこと」などが提案されたという。

男性向けコンテンツでも、根本の物語構造は変わらなくても、70年代・80年代のモロあからさまな女性蔑視がそのまま表現されることは2020年の今日では稀だし、もし無邪気に表現されていたら男性読者も「うわぁ」と引くのと同じだ。男性向けコンテンツは女性向けに比べてその意識が相対的に遅くても、たしかにそういうことは起こっている。

プロ・ウーマン・ラインから見るヒロイン

現在では、女性作者がほとんどであるハーレクインロマンスの著者たちは自分たちをフェミニストだと自認しているという。その論理はこんな感じ。

パターン4

自分たちのロマンスのヒロインは、人生における目標をそれぞれ探求しながら成長を遂げ、最終的にはその目標に到達するのであってその意味でで現代のフォーミュラ・ロマンスは本質的に「プロ・ウーマン」の立場をとっている。(尾崎俊介氏「ハーレクイン対フェミニズム -フォーミュラ・ロマンス批評史をめぐる一考察-」より引用)

プロ・ウーマンというのは、1960年代の「プロ・ウーマン・ライン」からかな。初期ウーマン・リブ運動では、ブラジャーやハイヒール、化粧などを抑圧の象徴としてノーブラになってブラジャーを燃やしたりといった運動を展開していた。時には、その抑圧の象徴であるハイヒールや化粧なんかを自ら嬉々として履き、実行する女性にたいする苛烈な非難にもつながったりした。

でも、ハイヒールを履く彼女らは、女性が自らの抑圧のために非難されてはいけないとするのがプロ・ウーマン・ラインの考え方だったと思う。ミスコンに参加する女性出場者は批判すべきではないが、その大会を主催する側は批判すべきという考え方につながる。

女性が現状の社会で生きやすいように自己実現を行う中で、抑圧を一部受け入れたり自ら選択することは批判されてはならないということだ。

つまり、ロマンスのヒロインは、自分の自己実現を願い努力して成長する女性であり、その中で化粧をしても非難されるいわれはないということになる。

努力して成長し自己実現する物語……つまりは物語類型でいうビルドゥングスロマン(教養小説・自己形成小説・成長小説)のこと。

つまりは、女性の成長小説は非難されない、フェミニズムと共闘しているとハーレクインロマンスの作者たちは主張しているわけだ。これが正しいかは別にして、いい立ち位置の主張だと思う。

男性向けコンテンツでもほとんどのばあい、主人公の男性は努力し成長し自己実現していくが、残念ながらそれがフェミニズムと共闘しているとはみなされない。

なぜなら、主人公は男性で、成功していく社会体制は家父長制だからだ。落ちこぼれの男が支配者層の男に出世しても、ただ女性を抑圧する権力をより強く行使できる立場になるだけだ……! 努力して獣人娘にエルフに王族の姫と重婚しました! ナニソレ! 死ねよ! ぎゃふんだよね。

ここで、自己実現の夢をロマンス小説に託す哀れな子羊は、自分を救う言葉を失う。のか……?

プロ・マンという不可能性……という現状

というワケで、尾崎俊介氏の論文をサカナに牽強付会して、Twitterなどでぶつかり合う男性向けコンテンツを巡る批判を見ていってみた。結果、男女間の性愛を扱うロマンスにおいて男性向けコンテンツが、欺瞞的、外形的にも「親・フェミニズム」のポーズを示すこともなかなか困難であることが明らかになってしまったように思う。

うーんどうしよ。

まあ、男性のドリームや規範を温存するシステムって、ラジカルに言われればその通りなんだよね。ただ前述の言い訳(女性側にとってもだと自分は思う)「戦わない/戦えない男性の自己実現の夢を叶える男性向けコンテンツは必要な逃避文学でありサプリメント」は一定の正しさではない「共感」を得るためのよすがにはなり得る、かも、しれない。というところかな……。

世の中に流通していてウケる物語類型なんて大した数がないのだから、「一般の文学」も構造的な問題はそのまま適用されうるし、世の中のほとんどのコンテンツもそうだろう。でも、だからといって問題がないとは言えない。

ってことは、できうるのは現代の潮流や、雰囲気に合わせたチューニングということになる。女性作者や女性イラストレーターは女性向けコンテンツに比べて非常に多いけど、彼女らは自己実現のために頑張っているが、生まれたコンテンツを貪る俺は別に頑張ってないもんな……。

それが、『ソード・アート・オンライン』だといろんな女性に言い寄られたり恋愛感情を向けられても朴念仁のキリトはアスナ一筋で結婚もしてます! とか、なかなかこう判断の難しいことになったりもしつつ、徐々に時代に合うように変遷していくしかないんだろうか。プリキュアがついに男の子だってプリキュアになれる! といった風に。プリキュアは本当に凄いよね。プリキュアが描く女性像の変遷を追うだけでマジでビビれる自信ある

あ! 今、ふと思ったんだけど、久保内が愛してやまない『マクロスF』は、一見超時空ロマンスの振りをし続けてるけど実は最後にヒロインを選ばず、宇宙生命体バジュラに飛び込み、人類を次のステップに押し上げる解脱の道を選んだからセーフなのかも! ダメかな……? 主人公アルトはOKでも、ランカちゃんシェリルちゃん言うてるもんな自分。

ところで関係ないけど『彼女、お借りします』はどう見れるの? という個人的な疑問

そこで今、自分が気になっているのは、7月より放送開始のアニメ『彼女、借ります』は、女性からみてどういう風に映るのかということ。

『彼女、お借りします』は、彼女に振られたさみしさからレンタル彼女を申し込んだ主人公・和也が、現れたレンタル彼女・千鶴の完璧さに打ちひしがれ、不釣り合いであると自分を卑下しつつも八つ当たりを繰り返す。千鶴の怒りは爆発するが……、というストーリー。典型的な風俗で説教するこじれマインドが、マシになったりならなかったりする経緯とレンタル彼女という舞台設定、ヒロインの凛としたキャラクターは現代的に思える。

さらに、付き合ってもいない女の子を家族に紹介するハメに……だとか、気になるあの子は実はアパートの隣の部屋に住んでいて……だとか、旅行に行ったらそこにたまたま彼女がいてドッキドキ! といったベタすぎるコメディの筋立てを採用しつつも、それをひっくり返していくという物語構造自体への批評にもなっているように感じる。

でも結局は(多分)主人公とヒロインのロマンス構造になっていくと思うんだけど、もしかしてそうならないかもしれない。

かなり今のクールでお気に入りなんですけど、こういう構造の男性向けコンテンツはアリにうつるんだろうか? そこが今は気になっている。

とはいえ、ダメと言われたとしても好きですけどね……。『彼女、お借りします』の制作陣の方々、もし面倒なコトになったら本当にごめんなさいね……。

というわけで、本日はこんな感じで。かかった時間については考えたくない。

超激烈門外漢なので、ご意見・ここの理解全然違うよバーカなどありましたらTwitterは@tabloidですんでね。ただ、ちょっと指摘したいとか感想寄せたいとかなら、マシュマロとか使ってくださいね。











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?