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サマーウォーズは祖母がうざいから嫌いというご意見について

気が付いたら、タイトル案だけnoteの下書きにため続けて一か月が過ぎ、そのタイトル案も今となっては何が言いたかったのかわからなくなっている久保内ですけど。

一応、仕事もひと段落したので、今月くらいは週に三本くらいは殴り書きでいいので、Twitterとかから安易な着想(という名の「これ、ちがうんやない?」という気持ち)を得てなにか書いてみようかと思う。

というワケで昨日なぜかタイムラインで盛り上がっていた細田守の『サマーウォーズ』の感想について思ったことを書く。どうも、テレビで放映されてもいないのに夏の終わりなんかに定期的に同じような感想が話題になるということは、なんだかんだ言って『サマーウォーズ』は力のある映画なんだなあと思う次第。とはいえ、自分内の評価は全く高くなく、映画館で見た時にかなり愕然とした記憶だけ深く刻まれている

でも、Twitterなどでよくみる、「祖母が強権的で大嫌い」だとか、「一族がほとんど公務員ってご都合主義じゃね」とか、「田舎の嫌なリアルが描かれているから受け付けない」とかについては共感できない。ヘタしたら、田舎の嫌な風習の煮凝りが祖母に象徴されているみたいな感想すら見たことがある。

しかし、自分にとって『サマーウォーズ』とは、押井守的SFへの細田守的回答というか、サイバー空間をもってサイバーや実存を語るのではなく、もうちょっと地に足が付いた設定でSFをきちんとやるという意欲でもって作られた作品だと思っている。

その理解からいくと、前述の「祖母が強権的で大嫌い」だとか、「一族がほとんど公務員ってご都合主義じゃね」とか、「田舎の嫌なリアルが描かれているから受け付けない」なんかは、構造的な必然であって、「だからダメ」の対象ではなく「そこからどういう構造を見るか」の問題に思える。

『サマーウォーズ』にとっての祖母の存在とは「田舎の因習の象徴」ではなく、中央集権、もっとターゲットをしぼるとマザーコンピュータによるネットワークの象徴であるということ。そして、ネットワーク上としてそれに対応する存在として仮想空間OZがある。村上隆のデザインによる全くログインしたくない空間(俺にとって)OZでは、行政機関の手続きなんかも全部ワンストップで行える。祖母は、マザーコンピュータの現実世界の比喩であるからこそ、一族は公務員が多く、実世界に大きな影響力を及ぼす存在として描かれる。なんか行政の偉い人に発破かけたりとかw。

いちばん、このマザーコンピュータ的な機能が象徴的に描かれたのは祖母の死後、遺体の痛みを抑えるために遺体の周りに氷の塊が置かれるシーン。スパコンを稼働させる際に熱が問題になったために、祖母の遺体の周りの氷はスパコンのほうに置き換えられていく。ただのギャグシーンとして描くには不謹慎すぎるこの描写は、ネットワーク空間と現実世界の二本立てで中央集権・マザーコンピュータの統制によるネットワーク世界についての描写が、ここでネットワーク空間内のウォーズに一本化されることを示唆している。

そして、祖母と同位置に据えられたスパコンでも敵を抑えることができなくなって、このマザーコンピュータによるネットワークとは違う新しい規範や生き方・考え方が要請される。それが、分散型コンピューティングであり、映画のキャッチコピーにもなった「つながりこそが、ボクらの武器。」というワケだ。この「ウォーズ」はLANケーブルを抜けば解決する類の問題ではなく、現実世界にもあると示すために陣内家や祖母の存在があったわけだ。

ま、そこで示される新時代の規範が、みんなでスマホをもって祈るだったり、多数決でオイチョカブだったりするんだけど!!!! 

ただ、まあ、もっぱらサイバー空間上の物語として描かれたマザーコンピュータの崩壊と新しいネットワークコンピューティングの到来についてのお話を日本の官僚制度だったり田舎の慣習だったりと、リアルに落とし込んで大きく、かつ地に足の着いたストーリーにしようとしたことは評価してもいいんじゃないか、という気はする。そういう志はあったけど失敗した映画、というのが久保内の理解だ。

というわけで時間も来たのでこの辺で。


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