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わたしは一ヶ月と二十日、ニートだった(1)

 わたしは銀座生まれである、両親と大きな屋敷に3人で暮らしていた。両親はお金持ちだったけど、周囲の人に対する冷たい態度がすきではなかった。親戚の人達は絵描きや女優をしている人もいた。わたしも小さい頃から芸術家に見られることが多く、確かに絵を描くことがすきで同時にデジタルも触ることが出来た。アートとITのいいとこ取りをした様な人間であった。しかし、他人と上手く交流することが出来ずに、上手く社会に馴染むことが出来ませんでした。先日遂に障害3級に認定されたのだ、先生からはもっと早く心療内科を受診して欲しかったと話された。

 わたしは、睡眠不足で長時間継続して寝る事が出来なかった。頭痛も頻繁にする、幻聴にも苦しめられていた。しかし色々なことを妙に納得して、受け入れて生活していたので、今まで障がいとは思われなかった。まるで勉強が苦手という様な性格の一部として扱われていたのでわたしも可愛らしいと思う様にしていたのだ。それがどうも違うぞと思い出したのが、両親の生前贈与で住宅を譲ってもらうと、わたしが交流を持っていた団体の仲間と一緒に住み始めた。わたしはその人たちを家族と呼んでいる。実際にわたしのパートナーとも住んでいる。その団体には魂の友人も居た、男性の方だったけど、2・3ヶ月に1回連絡があって、海に朝日を観に行ったり、ドライブに出掛けた。わたしのことがすきなのかは聞かなかったけどわたしにとても優しかった。パートナーもその男性の事は知っていたけど何も言わなかった。

 わたしは派遣社員で長らく働いてきたけど、病気の事や家族のことを仕事先にも伝えていた。わたしは他人との交流には問題があったけど、色々な仕事に取り組むことが出来た。わたしの中の問題は給与面と精神のバランスの問題だった。例えば仕事には充分対応可能だけど充分な給料を貰えなかったり、逆に給与面では充分に満足しているのだけど、他人との関係性を作るのにストレスを感じたりして長く仕事を続けられなかったのだ。しかしわたしは仕事をすると肉体的には病んでいたけど、精神的には楽で、社会で実際に過ごす方が自分には向いていると感じていた。この事も障がい認定が遅れた原因でもある。わたしはアートやデジタルに詳しかったので、派遣先から声が掛かる事も多く、仕事先に困る事は無かった。先日、父親が癌で亡くなった。生前にはあまり話した事は無かったけど、わたしのことを良く心配してくれた。わたしが金銭的に困るといつも援助してくれたのだ、わたしが障害年金を受給できずに困っていると聞くと母親が相談に乗ってくれる様に助言してくれたのだ。

 わたしはパートナーに「わたしって恵まれているかな」と尋ねた。

 「俺がヒモでいられるのも、お前のお金をあてにしている」とパートナーが呟く。

 「あんたひどい人やね」と話した。

 「どうして俺と一緒にいるんや」と言うと、

 わたしは「あんたといると嫌な事全部忘れられるんよね」と伝えた。

 自分の家ではあるけど、パートナーの部屋のベッドに潜り込んで、ウトウトしながら彼氏の腕枕に身体を預けながら、明日の事を思った。仕事先には行きたく無かったけど、わたしに頼っているのは明白だった。その事を伝えて給料を上げる様に言うんだけど今の給料以上は支払えないの一点張りだった。

 パートナーはわたしの髪の毛を撫でながら、「仕事辞めちゃえば」と無責任に呟いた。

 高い天井の窓から、朝焼けに照らされた薄らとぼやけた月が見えた。わたしは急に仕事に行くのが不安になった。対人恐怖症なのである、わたしはベッドから起き上がると牛乳をレンジで温めて、昨晩の夕食の残りであるカレーを温めた。洋服を着替えて、会社の制服を着ると、会社に出社時間をメールした。給料を今の5倍は欲しいんだよなと頭の中で考えながら、パートナーから紹介されたキャリアカウンセリングの日時を確認していた。わたしは朝食を食べ終わると、飼い猫に餌をあげてバスの時間を確認した。

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