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私の心を支えてくれる美しい味方

「自分は文章を読んだり文字列を見たりするのが苦手ですが、なおさんはどんなところに言語の魅力を感じるんですか?」

そんなことを聞かれた。
確かに自分は言語、というか書き言葉が好きだ。
なんでだろう。

自分の性格と相性が良い

「私が上手に伝えたいことを伝えられる、一番の手段が書き言葉だから」というのが大きな理由だと思う。

考えや思いを伝える手段は、会話、ジェスチャー、絵など色々なものがある。

おそらく多くの人は、何かを伝えるなら会話が一番手っ取り早いと思うだろう。

自分も仕事で長めの説明をしないといけない時などはそう思う。「文字に書き起こすより、話した方が早そうだし上手く伝えられそうだな」と。実際話した方が早く正確に伝わる場面は結構多い。

でも、考えではなく気持ちを伝えるとなると、話は別だ。頭の中でどれだけしっかり整理していても、話そうとするとほんの一部しか伝えられなかったり思っているのと違うことを言ってしまったりする。

何故なのか。

話している時には、相手の表情や声色など色々な情報が入ってくる。

つまらなさそうな顔をしていたら「話を変えた方がいいかな」と思うし、イライラしていそうな声だったら「何か気に触ること言っちゃったかな」と考えてしまう。

気にしなければ良いのかもしれないが、私はどうしても無視できない。

そして気にした結果、話そうとしていた内容を変更したり省略したりしてしまう。

書いて伝えるなら、こうした心配はない。

書いているうちはまだ相手の反応は見えないから、落ち着いて、素直に自分の気持ちを表現できる。

相手の反応を想像することはあるが、自分で考えている以上は想定の範囲内だし、突然割り込んできたりしないからペースを乱されることもない。

伝えたいことを、そのまま、無理のないペースで吐き出すことができる。

練習して少しは上手く話せるようになってきたが、やっぱり自分は書く方が断然上手に気持ちを伝えられる。

絵やジェスチャーはどうか。
これらの方が上手く表現できるという人もいるだろう。

しかし、絵やジェスチャーを上手く使いこなすには、それなりの表現力がいる。

もちろんこれらも練習すればある程度上達はするが、言葉のように学校で長い時間習うものではないから、特別に練習の時間を確保する必要がある。

しかも、絵やジェスチャーは言葉よりも自由度が高い。色合いや動き方など個性を出しやすいが、受け手の好みもバラバラである。

そうなると、これまた自分の性格が邪魔をしてくる。

「全然上手に表現できない……」「あの人にはこれだとウケが悪いかも……」などと色んなことが気になって、進まなくなってしまう。

書き言葉なら、文字や文法など決まったルールがある。しかも大抵の人は学校の授業や普段の生活の中で共通の理解を持っている。

「自分らしい表現」もしようと思えばできるが、「当たり障りのない表現」がしやすく、好みによる評価を受ける不安が少ない。

書き言葉は、「相手にどう思われるか」が気になりやすい私にとっては、一番安心して使える表現手段なのだ。

納得のいく表現ができる

自分のペースで表現できる、というのと近いかもしれないが、書く時は話す時より長く時間をかけやすい。

(締め切りのあるものでなければ)一語一語じっくり選んで、納得のいく順番にして、という手順を踏める。

もちろん、話している時でも頭の中でそれらの手順を踏むことはできるが、頭の回転が速くないと結構難しい。

自分は会話する時の瞬発力のようなものがあまりなく、「ああ言えれば良かったなあ」「違う表現の方があっていたなあ」と後悔することがしょっちゅうある。

また、話している時に書き言葉のような丁寧な表現を使うと、硬すぎて変な感じと思われがちだ。

自分は正確に伝えられる方が良いな、と思って硬めの言葉を好んで使うけれど、堅苦しいと言われたり、「女の子は普通そんな言い回ししないからw」と言われたりしてしまう。(前者はともかく、後者は大分心外である。うっせぇわ。)

書き言葉なら、こうした問題から解放される。他の文章と比較して硬めだと思われることはあるかもしれないが、変とは言われないし、容姿も性別も関係ない。

強いて言えば性別によるイメージは付随しうるが、話している時ほどとやかく言われないように思う。

好きな言葉で、自分が「良い」と思う表現で、気兼ねなく思いや考えを綴られる。

ただ美しいから

ここまで自然言語について書いてきたが、プログラミング言語や記号に魅力を感じるのは、上記とはまた別の理由だ。

ただただ純粋に、美しいと感じるから好きなのだ。

浪人生の時に出会ったL. ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の世界観に惹かれて、まず記号に魅力を感じるようになった。

言葉は世界を移しとったものであり、対象と記号は一対一の関係で対応するという明快で簡潔な世界観。
そして、「語りえぬものについては人は沈黙せねばならない」という言葉で示される知の境界線。
情報が溢れ、それぞれの言葉が表す対象の定義が不明瞭な混沌とした世界のなかで、次々と出てくる知らないものたちに辟易していた私は、この世界観を美しいと感じ、この境界線の存在に安心感を覚えた。

普段使っている自然言語よりも、ずっとシンプルに世界を写しとっているように感じて、その在り方が美しいと思ったのだ。

そこから大学で言語哲学を学んだ。授業の中で記号論にも触れていたからか、文系だったがプログラミング言語にもアレルギーを感じず、むしろインターンでやってみたプログラミングがとても楽しく、そのままSEになった。

プログラムは、書かれた言語のままに動く。

人間のように、行間を読み取ってよしなに動いてはくれない。文法が少しでも誤っていればエラーを吐く。書いていないことはやってくれないし、文脈的におかしい内容が書かれていてもその通りに動く。

これは逆の味方をすると、プログラミング言語は、規則正しい構造で、プログラムの動きを正確に、そのまま写しているということでもある。

自然言語の場合、書き言葉ですら「ここでの気持ちを考えると、実はこういう意味かも」などと、到底正しく知ることなどできない他者の思いに考えを巡らせ、悩むことがある。

しかし機械言語の場合、そうした悩みは生じない。どの機械が、どんな状況で読んでも、常に同じ内容を表している。

ルール通りに、曖昧さなしに、何を表しているかはっきりと示してくれる。

このぶれなさ、正確さが、美しくて好きなのだ。

・・・

好きなものへの思いのたけを綴っていたら、自分のコミュ障具合を詳らかにするような内容になってしまった。

まぁどれも事実ではあるのだが……。

やっぱり自分には書き言葉が合っている。

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