戦国の中国地方の覇者・毛利家が築いた城下町・広島
広島城
別名・鯉城とも呼ばれ、プロ野球の「カープ」の名前の由来にもなってます。
広島の地図だけ見ていても、広島に城が建った理由が以前は分からなかったのです。と言うのが、今の広島の街は、太田川の三角州に中心があります。当然、城もその三角州の中にあります。
湿地の多い三角州にわざわざ城を建てるなんて、相当手間がかかるのと、守りの面でも弱いのでは?と。
戦国時代以前の街道は、今の広島のある、太田川の三角州を避けて、北に蛇行していました。ということは、太田川下流のデルタ地帯には大きな街がなかったとも言えるのです。
ただ、この地に城を建てた、毛利輝元は瀬戸内海の水運からくる、経済面を重視してこの土地に城を建てたとのことです。
戦国時代でも後半になると、山城から平地に城を建て替えることは、よくある現象でした。
有名な所で言えば、
春日山城 ⇒ 高田城(新潟)
小谷城 ⇒ 長浜城(滋賀)
この辺りは、比較的近くに新たに城を建て直しています。
それは戦国時代も後期となると、戦いも少なくなり、物流など経済が重視される時代になったからです。
山の中に防御のために立て籠もる必要性が、さほどなくなってきたからです。
もっとも、城自体は防御の拠点としての意味合いもありますので、守備がザルだったら意味がありません。
防衛面に関しても、広島城は、三角州を丸ごとを1つの城のようにして設計していました。
今の街並みからすると分かりにくいですが、中州の中にも、堀を張り巡らしていました。
広島市電の「八丁堀」駅のある交差点
地名に堀とある通り、ここは元々堀があった場所です。
この東西が広島市電も通る幹線道路が走り、北には支線が延びています。
ここから北と西へは堀が延びていました。
その堀の跡をずっと西に行くと、原爆ドームや昔の広島市民球場のあった所まで通じます。
ここまで堀が続いていて、すぐ西側は川になっています。
今となっては水路の跡は見えませんが、古地図を当たっていくとその場所が何となくわかるのです。
現在の広島の街は、この毛利輝元による築城によるものなのです。
関ヶ原の戦いで、西軍に付いた毛利家は萩(山口)に転封となり、広島も手放します。
代わりに広島に福島正則が入り、その後は浅野家が代々統治することになります。その間、広島は瀬戸内海の水運で経済面では潤い、低地を干拓して南へ南へと街をどんどんと発展させていったのです。
明治時代になると、広島城は陸軍の管理下に置かれ、師団が置かれます。
日清戦争の際には大本営も置かれ、広島城内にはその跡があります。
それだけ、広島は中国地方で軍事的にも経済的にも重要な街だったわけです。
ただ、その建物も第2次大戦で原爆を落とされ、跡形もなく壊されてしまいます。
戦後の復興で並々ならぬ努力はあったとは思いますが…戦後に広島城の跡は整備され、現在は模擬天守が建てられています。
広島の街の成り立ちについて、城内の資料はかなり充実しています。
歴史に興味のある方は広島城内も見ることをオススメします。
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