短編小説「二十歳」(by赤と気体)

 大人になるってことがいまいち分からないまま、明日がいよいよ、二十歳の誕生日になってしまった。明確にも曖昧にも答えを持たないまま、二十歳になってしまうことは、許されるのだろうか。大人になる資格は、どんなもので、そもそもあるのかどうかすら知らなかった。
 考えすぎてよく眠れない私のために、姉が入れてくれたホットミルクは、暖かさを失って膜を張ったままただのミルクとなって、机の上で待っていた。
 年の離れた姉のことを、私はどこか遠くの外国の人だと思っている。親が違うとか、育った国がとかじゃないんだけど、私には、姉は異国の人に思える。
「考えるのは悪くないが、考えすぎは悪い」
「何で?」
「身体にだ。大体胃腸に悪い」
 そうやって差し出されたホットだったミルクは、半分ほど残してしまっている。
 大人のように見える時もあれば、子供にしか見えない姉は、私と違ってケラケラと笑う。心の底から可笑しくて仕方ない、と笑う。
「大人になるって、どういうことだと思う?」
 ほら、また、ケラケラと笑った。
「笑わないで、答えてよ」
「やだよ」
「答えてよ」
「やーだ」
「何で」
 私が拗ねて唇を尖らせると、諦めたように、こう言った。
「知らないから。知ったかぶりで答えられないよ」
 私は唇を尖らせたことを恥じた。子供っぽい。けど、子供っぽいを止めたら、大人っぽいになれるのだろうか?
「じゃあ。お姉ちゃんは、自分のこと、大人だと思う」
「思う」
「何で?」
「お酒が飲めるから。おつまみが大好きだから」
 ケラケラ、ケタケタとまた笑い声を上げた。
「答え知ってるんじゃん」
「知らないって」
「お酒」
「それは私の。あんたの思う大人は分かんないの」
 ほら、あんたは牛乳飲みな。ギリギリまで身長あがけー。私はお酒飲むから。またね。二十歳おめでと。
 捲し立てるように言うと、姉は私の部屋を出た。夏の夜だと言うのに肌寒くて、夜の冷たさと姉の暖かさを感じた。
 何度目かの問いかけをする。大人って、何なんだろ。答えは、あるのか、ないのか。
 不意に、机の上のミルクが黒く淀んだ。驚いて時計を見ると、十二時になっていた。
 ああ、期限を過ぎたんだ。色々な物事の期限。猶予。私が姉に渡されたホットミルクも、期限が切れてしまったんだ。だから、黒く淀んだ。
 気付けば辺りはそんな期限が切れたものばかりだった。練習しなくなったギター。もう使わないノート。昔のスマートフォン。部屋の隅のぬいぐるみ。色んな物が黒く淀んでしまった。寂しくなりつつも、それが仕方のないことだと、私には穏やかに理解ができた。
 ふと、恐怖を感じて、鏡で自分を映した。
「よかった……」
 そこにはいつも通りの私がいて、黒く淀んてはあなかった。静かに息を吐く。
 私の期限は切れていなかった。これから。きっとまだこれからなのだ。子供としての期限切れて黒く淀むのではなく、これから大人としての私が始まっていくのだろう。大人になった私には、期限が、どれほどある?
 ノックの音がした。優しい高めの音。それが二度鳴らされると、声が聞こえてきた。
「もしもし? 改めて、誕生日おめでとう」
 ちょっと酔いながらも、優しい姉の声が聞こえた。
「ホットミルク、飲んだ?」
「まだ飲んでない」
「ちょっとー。私の善意だよ?」
「ごめん」
「飲んで飲んで」
 姉の善意には悪いが、コップの中にはコーヒーよりも遥かに黒いミルクが入っており、それはおよそ飲みたいと思わせるような物ではない。
 ミルクである資格を失ったそれは、もう何と形容すればよいのか分からなかった。
「え、ちょっと……」
「あっ、期限が怖いから飲めないんでしょ」
「え?」
「図星だ」
 こういう時、姉は変に鋭い。というか、当たってないんだけど、本質を突くというか……。
「いいんだよ。少しぐらい。過ぎたって飲めるし、おいしいよ」 
 そう言われた途端にはっとした。このミルクを黒くしたのは、他でもない私ではないのか、と。私が黒く見ているから、黒くなってしまっているのではないのか、と。
 意を決してその黒い液体を喉に流し込む。生ぬるい液体は、濃厚で、少し甘味を感じさせながら、喉を流れていった。
「……おいしい」
「でしょ? 二十歳初ミルク。その内お酒も飲もうね」
 扉の向こうで、姉がにひひと笑っているのが分かった。
 そうか。期限が切れたっていいんだ。大人の期限が切れて黒くなろうが、大人になれずにこのまま黒くなってしまおうが、構わないんだ。私は、私で、ミルクはミルク。その本質は、結局のところ変わらないんだ。
 その本質を無理に変えようとしたところで、何かになれるわけじゃないんだ。変えようともがき続けることこそが、子供のように見える、のかもしれない。
 底に残った黒いミルクは、この夜にとても似ていた。それは、色も質感も、冷えた生ぬるさすらも、この夏の夜に、酷似していた。
 風が吹いて、窓際の風鈴を静かに揺らした。

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