煙に巻かれて。 第一話

 桜日和子は気が立っていた。
 特にこれと言った理由はなく、様々あるその小さな一つ一つも、つまみ上げてよく見て、ようやく名前が分かる程度のものであった。セットしていたはずの目覚まし時計が鳴らなかったり、焼いていた目玉焼きを焦がしてしまったり、それを妹に「すごいね」と茶化されたり、いつもより一本遅い電車が満員だったり、そもそも夏を目前にしてかなり暑かったり、そんな程度のものだった。
「おー、おはようヒヨコ」
 いつもだったら軽く流せるあだ名も、今の彼女には気になって仕方がなかった。
「ヒヨコじゃないです、和子です。私の名前は、桜日、和子。さ、く、ら、び、か、ず、こ。アンダスタン?」
 万年寝不足の先輩は面食らったような顔になった。いつも開いてない目が心なしか開いているように見えた。
「なんだ、急に? 別によくねーか」
「良くないです。そもそも先輩が間違えたのがきっかけじゃないですか!」
 それは自分が配属された日のことである。その日が皆の前での初挨拶になることから、気合を入れてメイクをし、髪形もしっかり整えた。職場は遊び場ではない。しかし、礼節を持って身だしなみを整えることは当然である。鏡の前で何回も見て、署内のお手洗いでも念入りに確認した。
 というのに、隣にいる男は無精ひげを生やし、眠そうにあくびをしている。
「えぇー、今日からここの配属になって、俺が指導することになる、桜、桜……。桜日和、子? びより、子……? さくら、さくら……」
 バグったロボットのように、その男は何回もさくらさくらと呟いた後、
「びよ、ひよ、ひより、ひよりこ、ヒヨコ? 何だこれ? 何て読む?」
「和子、です!」
「お、おう……。にしても、しっかり化粧してんな」
 凄んだ私の顔をまじまじと見ながら、無精ひげはそう言った。
 少しの沈黙の後、その場は、爆笑に包まれた。
「す、すまん……。許せ」
「許しません」
 凄まれながら、無精ひげは小さく自分の名前を呟いた。
「指導担当の、安藤隆二だ」
 この一件から、私は「ヒヨコちゃん」と呼ばれるようになったのである。
 最悪の第一印象である。
「その場でも謝ったじゃねーか」
「にしても、このあだ名率先して使ってたの、先輩ですよね?」
「周りとも親しみやすくなるかなっていう、親心だよ」
「そもそもイントネーション違いますよね?! 頭にイントネーション来ないと、日和のヒヨコにならないですよね! これじゃ鶏のヒヨコですよね!?」
「何のこだわりだよ、知るか!」
「いつまでもひよっこみたいじゃないですか!」
「事実じゃねーか!!」
「元気なのはいいが、」
 私たちの口論を遮って、穏やかな声が聞こえてきた。声の方に二人で向くと、白い髭を蓄えた人物が立っていた。
「朝から騒がしいね」
「す、すみません」
 隆二先輩が軽く頭を下げる。それにならって私も慌てて頭を下げる。
「まぁ、朝を告げるのが鶏の仕事だから、仕方ないのかもしれないが……」
「課長?」
 軽く咳ばらいをすると、警部はこう続けた。
「事件が起きた」
「事件?」
「それも、二件」
 それを聞いて、私も先輩も、姿勢を改めた。
「どんな、事件なんですか?」
「……一つは」
「はい」
「水を出そうとしたのに、お湯が出た事件」
「はい?」
 なんじゃそら。
「どういうことですか?」
「文字通りだが?」
「意味は分かるんですよ。文字的には」
「それ以上でも以下でもないよ」
「クラ〇アンに持っていくべきでは?」
 真面目な声色で隆二先輩がそう言っているのがじわじわと面白い。
「君たちに、持ってきたんだ。この意味が分かるかね?」
 私たちは、頷いた。つまり、そういうこと、なのだろう。
「もう一件は?」
「火事。恐らく、放火だろう」
「だろう、というのは?」
「現場検証が終わってないんだ。だが……」
「だが?」
「煤の一つも敷地の外に出ていなかったんだ。綺麗に、なぞったみたいに真四角に焼け跡が形成されていた」
 私と先輩は顔を見合わせて、もう一度頷いた。
 これは確かに、私たちの案件、だ。

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