070.牛歩む郷愁の島
2003.6.17
【連載小説70/260】
得るものあれば失うものあり。
文明化が何事かを獲得し続ける歴史であるならば、そこに生まれる喪失は多いはず。
その中のひとつに「郷愁」という感情があるのではないだろうか?
本来、「故郷は遠きに在りて思うもの」であるが、世界の何処に居ても1日あれば帰省が可能な今、人の世にかつての「郷愁」はない。
自らの足や、せいぜいその歩みを数倍速める程度の移動手段を用いて旅をしていた時代、時間と空間はバランスよく人に「郷愁」を与えてくれていた。
つまり、自身の時間的労力を要してはじめて得る空間的移動には、離れてこそ実感できる「かつての場所」が精神レベルで付いてきたのだ。
竹富島に渡って、はや1週間。
白砂の街路をゆっくりと行き来する水牛車の歩みや三線の音色が、慌ただしい現実時間への抑制力を持つのだろうか?
僕は失いかけていた「郷愁」という感情を取り戻した。
そして、ここから動けないでいる。
いや、ひとまずここから動きたくないというのが本音だ。
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石垣島から離島便船で約10分。
互いに対岸をはっきりと確認しあえる距離にありながら、僕は一種のタイムスリップ感を持って竹富島に降り立った。
水牛車観光や民宿の送迎マイクロバスが並ぶ桟橋で、最初に目が合ったのは陽によく焼けた島の女性。
20代後半くらいだろうか?
一見サーファーのようにも見える彼女の笑顔を伴った視線に捉えられた僕の口から、誘い出されるように「こんにちは」のひとことが飛び出した。
「島へは観光で?」
と尋ねる彼女に、放浪旅の途上で竹富に一泊してみようかとあてもなくやってきたのだと自己紹介すると、それなら是非うちの民宿へどうぞと誘ってくれる。
ちょうど今、昨日の宿泊客を石垣島へ見送ったところで、今日は宿泊予定者がないので、飛び入りでも問題ないという。
その場でお世話になることを決めて、マイクロバスへと乗り込んだ。
島中央に位置する町並みへは2分足らず、その中で交わした会話によると、彼女の名前は原奈津子さん。
長野県出身の27歳で、5年前に音楽大学の卒業旅行をかねて友人たちと訪れた八重山諸島への旅で、竹富島と琉球三線の音色に運命的な出会いを感じたという。
その後、この土地と文化に魅せられて、何度も島通いを重ねた彼女は、昨年の1月島に移住した。
今は民宿の手伝いをしながら、八重山民謡や島唄の研究を重ねているとのこと。
民宿に着くと彼女に薦められるままに、まずは水牛車観光を体験することにした。
そして、40分の短時間の中で、一階層深い竹富へと旅をした。
昔ながらの風情を残す集落の細い路地は全てが白砂。
道端に亜熱帯の原色の花々。
まるでこの島の主であるかような水牛のマイペースな歩み。
三線片手に島の歴史を語るガイドの名調子はのどかで楽しく。
自慢のノドで竹富発祥の沖縄民謡「安里屋ユンタ」を披露してくれる…
多くの来島者が最初に体験するであろう、この水牛車観光には文明側に流れるスピードをたやすく自然の側のそれに変換する魔法が潜んでいるのではないだろうか?
40分に凝縮された悠久の時との交信。
そんな催眠術的パワーに導かれた僕の中で、その日、石垣島も沖縄本島も、トランスアイランドさえもが記憶の中で小さな過去となった。
以降の1週間、僕は「郷愁の島」に暮らしている。
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島に着いた日こそ晴天だったが、その後は常に曇天で毎日のように雨が降っている。
既にひと月前には梅雨入りを済ませていた竹富島は、夏休み前の観光閑散期らしい。
この閑散期というのが、旅好きの僕にはたまらなくいい。
地の人とそこを訪れる人、つまりホストとゲストの関係性において、後者が相対的に少ないという関係性は、そのまま旅の密度に直結するからだ。
南の島イコール青い空と眩しい太陽、というマスツーリズムが提供するイメージは、その土地にとって表層的な一部分でしかない。
旅の魅力は土地の奥行きに触れることにある。
晴れた島はもちろんいいが、雨に濡れる町並みを見るのがまたいい。
星と月明かりに照らされる夜の集落の幻想的な白さも魅力だし、赤瓦の屋根に打ちつける雨音をバックに聞く三線の音色も格別だ。
つまりは、重ねる時間の分だけ島は旅人にその奥行きを披露してくれる。
そんな島で、おそらく5年前に僕と同じインスピレーションを得たに違いない奈津ちゃん(島の人々が親しみを込めてそう呼んでいるので、僕もそう呼ばせてもらうことにした)と毎日のように島談義を重ねている。
そして、毎夜、彼女や島の人々が奏でる三線の音色に酔いしれている。
ゆっくりと僕の中に竹富島の鼓動が浸透してくる感覚。
そのスピードは牛の歩みのごとくスローだが、そこには白砂を踏みしめる着実感がある。
もうしばらく、この島に留まって、さらに深いところを観察してみることにしよう。
------ To be continued ------
※この作品はネット小説として20年前にアップされたものです。
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