現代思想の冒険

現代思想の冒険 竹田青嗣 1992年

【序】思想について
・子供の頃:自分の家族や友だちといった直接的な世界しか知らない
・思春期から:概念の網の目としての<社会>という“言葉の国”を持つ
  <自我>の確定により、
  社会への実践的操作の技術、権力操作を可能し、
  社会構造の改変の手だてを考えることができるようになる。
<世界像>は、自分自身で考えられ作り上げられたものではなく、すでに社会の中に存在している一定の<世界像>の中から選びとられたものである。
 単に社会総体の客観像ではなく、価値の関係像を含んでいる。
<思想>は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な<世界像>に対する違和の意識から発し、編み変えようとするプロセスである。

【第1章】<思想の現在>をどうとらえるか
・マルクス主義:侵略と戦争の原因は、資本家と労働者が対立する資本主義国家の矛盾からやってきたものだと説く。
・マルクス主義の実践的試みを担う社会主義国家にもさまざまな矛盾や問題が現れてきた。
・ひとびとの豊かに生きたいという欲望のイメージが革命ではなく、高度消費社会の先端的なイメージに結びついた。

【第2章】現代思想の冒険
・ポスト・モダン思想
近代哲学(思想)の“主流”である デカルト ― カント ― ヘーゲル ― マルクス から独立したかたちで立った。
・スイスの言語学者 ソシュール
① シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)
言葉は客観的に存在する事物の秩序に名付けたものではなく、人間が言葉によって編み上げたものが事物の秩序である。
② ラング(言語規則)とパロール(個々の発語)
個々のパロールの実践は、ラングの体系を乗り超え作り換えてゆく源泉となっている(言語の恣意性)。
③ 共時態と通時態
言語は通時的な(歴史的)変化と共時的な(その時、その空間)体系性を持つ。
 何が言葉の体系を作り出し、それを動かしているのかは、言語の体系からは導き出せない。
・フッサール現象学 
人間にとって世界の<客観>(ありのまま)を論証することは原理的に不可能であるが、人間は<意識>の現象を「ありのまま」に言い当てることは可能である。人間にとって「本当」、「リアルなもの」は、この<意識>の「ありのまま」を言い当てる可能性からのみ与えられる。

・構造主義思想
(1) 関係論:ものごとの実体を直接問うのではなく、社会、文化、歴史をその関係のあり方を取り出す方法で問う
(2) 共時論的分析:一社会や一文化の状態を、現在(ある一定の時)の総体的体系性として捉えようとする
(3) 構造論:明らかに意識されている制度のあり方ではなく、それを支える人間の無意識の“構造”に注目する
(4) 形式化:要素を徹底的に形式化して、そこから関係の束をつかみ出す

レヴィ・ストロース:民俗学の研究。各地の「神話」や未開文化の目に見えない“構造”をつかみ出す。無意識の構造に注目。
ラカン:構造主義的精神分析。人間の意識―無意識の“構造”は、生理―本能―意識となだらかにつながっている動物のそれとは全く違った構造を持っている、というところから出発する。
人間の「欲望」は、本来的には無方向に散乱してゆこうとするエネルギーとして存在するが、人間は社会の中でそれを一定の秩序(象徴秩序)へと閉じ込める。
ロラン・バルト:記号論。社会の文化的諸現象そのものを意味作用の構造としてつかむような方向にむかった。現代社会には人間が知らず知らずのうちに<無意識のうちに>ある意味作用の世界<神話世界>の中に投げ込まれているという側面がある。

・ポスト・構造主義
ニーチェ: <真の>世界を見出そうとする認識の働きは、やがて<真理>や<客観>が存在しないことを見出すに至る。
一切の社会的な秩序を呼び寄せているのは、<意識>には決して表象され得ない「力への意志」である。
ジャック・デリダ:フッサール現象学における「厳密学」の理念を批判。認識批判。言葉は現実認識の道具なのではなく、より本質的には美やエロスを作り上げる素材だと見なされる。

ふたつの現代社会認識
ボードリヤール:労働が終わり、生産が終わり、経済が終わる。これらすべてを終わらせるのは革命ではなく、資本自身なのだ。資本が生産様式による社会的決定を廃棄し、価値の商品形態を価値の構造形態に置きかえる。この構造形態がシステムの現在の戦略全体を支配している。資本は決して自己崩壊しない。
現代社会では、人間の欲望はコピーのコピーとしてシュミレーションのプロセスの内部にあり、もはやどんなオリジナルも持ち得ない。
人間はシステムのうちにあって、生きるうえで必要なものの一切(欲望、労働の機会、問題のすじみちに到るまで)を、一方的にシステムから与えられている。
ドゥルーズ・ガタリ:「欲望する生産」
<欲望>→<実在>(社会的生産)→<欲求>(記号としての「欲望」)
資本主義機械は、ある意味で「欲望」の最終的な社会形態である。これは理想的という意味ではない。
現在の高度消費社会にはその操作を司る人間的<主体>が存在せず、社会それ自身だけが<システム=機械>の自動運動の<主体>である。
<世界>(=社会構造)は、人間にとって全く手に負えないものとなった。
近代思想は<社会>と<人間>の調和を問題としてきたが、ポスト・モダンではこの調和の不可能が宣言された。

人間は社会の中で生きる意味を探りながら理想を目指している。
人間の生は一般的には<社会>という形式的条件によって可能になっている。だが<社会>が人間の生にとって永遠の桎梏(しっこく:手枷足枷)であるなら、<社会>という原理が存在する限り生は否定的なものとならざるを得ない。
<社会>は完全な理想には決して到達しえないかもしれないが、それにもかかわらず、人間は、自己の関係本質を実現し得る「可能性」を持っているし、また一方で人間が<社会>を永続的に改変してゆこうとする努力には、はっきりした意味も根拠もある、とわたしには思えるのである。

【第3章】近代思想のとらえ返し
近代思想の“ものの見方”の変遷を、わたしたちは生活の中で無意識のうちに身につけている。
・デカルト
(1) 感覚はひとを欺くことがあるから、一切のものを疑う(信用しない)という立場に立つ。
(2) ただひとつだけ疑えないものは、考えている自分の存在である。
(3) 人間は疑う存在である以上、全く完全な存在であるとは言えない。人間が持っている<神>の概念は、これ以上完全であることが考えられないようなものである。
・カント
<主観>に現われているリンゴは客観(物自体)としてのリンゴが人間の感性(感覚能力)というメガネを通して脳裡に映像を結んでいるもので、人間の感性は制限されたものだから、主観に現れているリンゴは客観としてのリンゴ(物自体)を一致しない。
人間は「本質」を認識することはできないが、それを意志し実践することはできる。「本質」は「真、善、美」と置き換えると分かり易い。「真、善、美」という“理想”は、認識されえるものではなく、ただ意志されえるだけだ。
・ヘーゲル
人間の認識の深まりを、人間の存在が<社会>や<歴史>との間に調和的な合理を見出してゆく必然的な運動として思い描いた。
ヘーゲルの思想は、デカルトから出発した人間の理性的精神が、はじめて厳密な仕方で社会総体の構造を問題にし、その構造を動かそうとしたという点で大きな意味を持っている。
デカルトやカントが人間の理性使用をもっぱら自然の認識と人間の内的な精神のありように限定したのに対して、ヘーゲルはそれを、社会のありようにうまく接合するようなかたちを思想として作り上げた。
・マルクス
<労働>は人間の能力の対象化であり、労働の生産物は、彼の自然な人間力の対象化(表現)である。ひとは他人と関係を結ぶとき、基本的には自分の智慧や体力を使い、そのことによって自分(の心)を表現する。<労働>することは、じつはこのように自然を介して他人と関係を結ぶことなのである。
<資本―貨幣>の原理がそこに入り込むと、<労働>は賃金―貨幣に“還元”され、生産物もまた商品―貨幣に“還元”されるだろう。魚と野菜を交換することは、単に価値(交換価値)をやりとりしているにすぎず、子を育てるための親の<労働>は、見返りを受けるための“投資”となる。<労働>は、<資本―貨幣>の原理によって「疎外」されたものとなる。人間は(資本家も労働者も)自己の人倫(類的本質)を表現することも深めてゆくこともできない。

【第4章】反=ヘーゲルの哲学
デカルト ― カント ― ヘーゲル ― マルクス とまったく異質の思想の流れ

・キルケゴール
「死に至る病とは絶望のことである」
<社会>の問題はじつは人間の固有の生(=実存)の問題に還元され得るが、人間の固有の生の問題は<社会>の問題には決して還元され得ない。
人には社会の一員、‘組織人’としての心と、ひとりひとりが持っている魂のような、’個人‘としての心がある。いずれの心も何らかの形で現れて繋がりを求め、交流して編み変え、成長しているように思える。

・ニーチェ
すべての「目的」、「目標」、「意味」は、全ての生起に内属しているただ一つの意志、すなわち権力への意志の表現様式であり変形であるにすぎない。目的を、目標を、意図をもつとは、総じて意欲とは、より強くなろうと欲すること、生長しようと欲することと同じことであり ― またそのために手段をも欲することともなる。

【第5章】現象学と<真理>の概念
・フッサール
<客観>なるものはそもそも存在しない。<主観>どおしの間(間主観性)で成立する「ほんとう」は、その根拠を<客観>によって明かすことはできない。「ほんとう」の根拠はただ<主観>の内側だけで生じる「確信の構造」としてだけ言える。
近代哲学が<客観>と呼びその実在を確かめようとしていたものの正体は、じつは、間主観性として(二つ以上の主観に共通して)成立する、恣意的にはどうしても動かし難い「確信の構造」ということなのである。
「ほんとう」の根拠は、わたしたちの<意識>(主観)とその外に(超越的に)ある「ほんとう」のモデル(客観)との「一致」にあるのではない。その根拠は<意識>と<意識>の間にだけあるのであって、そのほかには何もない。

第6章 存在と意味への問い
キルケゴールは、決して<社会>や<歴史>一般の問題に還元できないような、人間の固有の生の契機をはじめて思想として取り出してみせた。人間は誰も決して他人と交換できないただ一度切りの生しかもてず、そのため自分の内部だけで処理しなくてはならない固有で絶対的な課題を負っている。キルケゴールが示した人間のこういった契機を、わたしたちは<実存>という言葉で呼んだ。

・ハイデガー
フッサールの現象学の方法をもっとも本質的に承け継ぎ、「存在論」という新しい思想の視線を提出した。
人間の生の意味は、幸せや理想に至りつくことではなく、ただ、<実存>し得るということにある。<実存>とは、人間がつねに現にある自分のありようを了解し、そのうえで新しいあり方で生きうるという「可能性」を手ばなさないことだ。自由と<実存>とは、この意味で同じことの別の表現にすぎない。

終章 エロスとしての<世界>
ふつう、人間が日常性を超え出ようとするような契機として現われる欲望は、「美」「エロス」「ロマン」「イデア」などの領域の欲望として現われる。
自分の才能に可能性を見出した人間は、芸術のために一生を棒に振ってもいいという心ばえでそのことに賭けることができる。つまりこれらはいずれも、いわば日常を絶えざる非日常への可能性そのものへと化そうとするような欲望のあり方なのである。
人間は<社会>への欲望を、<美>や<エロス>へのそれと同じく「超越」への“端的な”欲望として生きることができる。

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