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パスタソース

夢を見た。その時のそのまんまのようで、しかし体はふたつとも動かないでいて、俺はそれを押し付けているだけだった。余程の下手を踏んだのか、鮮血がキングサイズぐらいの水たまりを作っている。俺等が浸かっていると言うほうが正確だ。血の主はニコニコと笑っている。コイツの、この顔には見覚えがある。そうだ、初めてプリクラを撮ったときだ。目は細まっているのに大きく広い。視界を掴まれたまま、ありがたくない方の生暖かさが目のように俺を捉えて、そのまま瞳孔に飲み込まれていく。

その赤が一瞬それに見えて、そっか違うやとそう思い返したその短い間。波状に動いても心情の矢印の全てが後ろ向き、下向きだったことは辻褄が合わないようでいて正確な事実だった。
有名な数学パズルに餞問題というのがある。ある方角だけ車の頭を向けずに到達できるか。できるらしい。


俺の体は汗だらけで、どうやら自分の腕はタオルケットを抱きしめている。こびりついた汚れが目の前の場所に来ていて、俺は慌てて布を剥がした。

確かに、終わった恋に縋るのが甘美な甘えだとして、何を甘やかしてくれるって?

しかもモチーフが最悪で、恥ずべき人間性の証で、あるいは過去の幸せへの死刑宣告で、結局アイツの最初のシミに見えたそれは昨晩の自分がこぼしたボロネーゼソースだった。寝起きは言葉が出てこなくて困る。
他人がいると困りものでも一人暮らしでは時に、ちょっとした楽しみでもある朝勃ちが、せっかく幾分早く目覚めた朝の気分をむしろ萎ませて固定した。
昨日からつきっぱなしのテレビは、面白おかしかったバラエティが嘘みたいに冷めて、止まらない円安が云々と言っている。原因も結果もなく一種スラングのように、何万人の生きる意欲みたいなものをちょっとずつ削いでいるその報せが黙示録のよう。ゾッとする、アナウンサーの顔つき次第で、戦争だってお祭り騒ぎになるんじゃないか。

二週間で友人たちに異口同音で言われたことも同じように、ほどなくひとつの真実を生み出す。そっちはそっちで権力を持っている。たしかになー、ちゃんと別れて正解だったわ、なんて枠通りの返答を俺はする羽目になる。正解?うん。でもやっぱり、感情の方がより・・真実なのだった。口をついて出たタテマエを彼らはそれぞれに納得して、信用して、安心した顔で、帰路につく。やり取り、っていうのは互いが独りよがりだとそれはそれでバランスがいい。ふたりとも真実を傷つけないでおけるから。

次のニュースは総理大臣が仲の悪い国で国賓待遇を受けたって話題だった。満足げな顔同士のおっさんたちをきっと、一週間で何十回も見せられるんだろう。


「なんもわかってくれないんじゃん」君が泣く前の決まり文句だった。
そういう時の汗臭さをなぜかセックスの時より俺は愛していて、だから君のそれは事後的に独りよがりではなくなった。違うよ…云々、十回ぐらいめのやっぱり同じような文言で君を諭して、でも聴こえているかはわからない。精神が離れていると自覚するほど、身体はお互いを摺り寄せていく。だから結局、タテマエでいられない弱み同士の最悪な泥沼戦に綺麗な蓮の花を浮かべてるだけなのだろう、恋なんて。
そうしていたいのはいつも向こうだよなて、余裕をぶっこいていた自分が今はムカつく。余裕なんて理屈で持てるもんじゃない。余裕なんて。

両国首脳は建設的なやり取りに満足を得たんだそう。
不貞腐れた未練に満ちていない(ように見える)あっち側の世界は、多分すこぶる居心地が悪い。少しだけ開いた居間の扉を見て、ワンルームじゃなく1Kを選んでよかったと改めて思う。
一人になってからもこんなことを考えるなんて俺は案外、繊細かもしれない。わざわざベッドを降りて、ノブを折って丁寧に閉じる。俺はそのまままた布団をかぶって、マトリョシカのようになるべく世界と距離を置いた。
あ、やべ、テレビ消してない。


布団に対する怠惰な執着が功を奏して、俺の気分は凪いだみたいだ。

何度か微睡んで、そのたびに天才的な思いつきが根ざすや否や黄泉の国へと旅立つ。多分人間ひとりひとりがその全てを覚えている術を持ったら、クリティカルなアイデアだらけの世界に美術館がウン万棟新設されて、ベーシックインカムは月50万で、コンサルは商売上がったりだし政治家の駆け引きも慣例の範疇に堕ちるかもしれない。それぐらい天才的な時間を、いくつになっても惜しいと思う。

だから、君に半月ぶりの電話をしてみようという発想も、忘れてしまって惜しい。確かにいたのだ、そして確かに、目覚めて1分の短命に終わった。
なにかあったら困るから、とか言ってこれっぽっちの必要性もなしに、君が押し付けてきた番号の語呂合わせも、今や忘れてしまった。忘れてしまったのだ、それはもう、忘れてしまったのだから。
そのくせ嫌な夢の嫌なところだけを、死に際まで覚えているのだろうな。

ボロネーゼソースが黄色くなる頃に、血液はボロネーゼソース色になる。俺は起き上がって最初にベッドのそれを見つけなおして、数分前に2人でソースを頬に付けながら頬張ったパスタのさぞ美味かった記憶をただただ思い返した。



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