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東郷さくらです(プロフィール)

初めまして。東郷さくらと申します。鹿児島でシンガーソングライターとして活動しています。MBC南日本放送では、毎週日曜日21:45〜「東郷さくら〜音楽は想い出の目次」という番組を放送中です(2020年3月〜現在)

幼少期からラジオ&テレビから流れる歌謡曲が大好き。なぜかお気に入りだったのは「小坂恭子/想い出まくら」。6歳の時、桜島にコンサートで来ていたジャニーズたのきんトリオに会うために「滞在中のホテルに連れて行け」と両親に懇願、まさに、たのきん全力投球してました。のちに同じようにたのきん追っかけてサンロイヤルホテル前にいた当時の女子高生(現在50代)に「その子供憶えてる!」と言われ「生き証人発見!」と狂喜乱舞したことも。とにかく音楽が好き。ビートルズやベンチャーズでギターを覚え、平凡や明星に付録していた歌本で弾き語りをする子供でした。

小学5年生で曲を作り始めましたが誰にも聴かせることなくコソコソ歌ってました。今では信じてもらえませんが、かなりの引っ込み思案。小学生から中学生までは合唱部で、中学の時は声楽も。ちなみに小学生時代はバスケ部で、中学時代は陸上部も兼業。鹿児島市の陸上大会では2位の経験もあります(砲丸投げ/足も速くて体育祭では毎年リレー選抜)。高校ではフォークソング同好会という名称の軽音クラブ所属、バンドでギターボーカルをしていました。高校当時大全盛で大好きだったのは、ブルーハーツ、ジュンスカ、ユニコーン。そしてBOΦWYにバービーボーイズ。なのに文化祭では、槇原敬之とプリプリを歌いました。家ではスカパラも聴いてトランペットを吹いていました。

歌手にはなりたかったんですが「歌手になりたい」が通じる環境ではなかったので、良い子の私は親に心配かけぬように「インテリアデザイナーになります」と言って福岡の美術大学デザイン科へ。楽しい楽しい福岡学生時代、順当にクラブ活動(ラテンジャズが好きです)なども行い、かなりのペースで通っていた安いもつ鍋屋「紋次郎」で食べ過ぎたせいか、だいぶ太り。。。そんな中、大学クラスメイト男子ホリくんとの音楽談義、からのオリジナルラブに大いにハマリマした。オリジナルラブを通し数珠つなぎであらゆる音楽を知レテ行くことが楽しすぎて、もう私にとっては田島貴男大先生です。そしてホリくんはポエマーで、大学ノートにめっちゃたくさんポエムしていたのを見せてもらい感銘を受け、その詩に曲をつけ始めたのがきっかけで自宅録音での楽曲制作を開始しました。時はカセットテープ。でもって時はバブル崩壊。教授に土木系会社を勧められるも「やりたくないです」とお返事。とはいえ故郷・鹿児島に帰るつもりはなく「残ってバイトします」が、母に即却下で、家業パン屋を手伝うことになりました。(今ですとフリーターも大丈夫な時代ですけどね)

夜明け前に仕事始めて、日没してから仕事が終わるというパン屋の日々。インターネットもない時代、癒しは映画を観ることでした。毎週水曜日のレディースデーは必ず2本。さらに映画試写会も行ってました。「映画試写会応募1本につきハガキ2枚投函」をルールにして、多い時は週3本の試写会当選。その上近所のビデオレンタル屋で5本1000円を借りてたので、とにかく映画ざんまい。するとまあ歌詞が書ける書ける。曲もできるできるできる。そうこうするうちにホリくんの歌詞に頼らなくなり自分で詩を書いて、自作曲も200曲ほどになっていました。レコード会社にデモテープも送るようになったのもこの頃。「写真(ルックス)で落とされてるんだろう」というマイナス思考の割に自信過剰だった私は、ノーアンサーでもひたすらデモテープを送り続けました。いい加減誰も聴いていないだろうと思っていた90年代後半(20代後半)大手レーベルや音楽ディレクターさんから返事が来るようになりまして。そうなるともうやめられません。が、しかし。。その後ナニがどうなったワケでもなく。とりあえず健康診断で胆石が見つかりまして。父親には「もつ鍋胆石だな」と言われもしました(大学時代の積み重ね・上記参照)。

30歳を過ぎたらなんとなくデモテープは送らなくなったのですが。。のんびりと曲作りは続けます。音源制作しなくなった時間を英会話に費やした私は海外で困らない程度の英語を話せるようになり、 2006年、32歳でオーストラリアで路上ライブを経験。オーストラリア人に大喝采を浴びたことをいいことに急に、人前で演ることの楽しさ大切さを知り、急にやる気になりました(もっと若いうちに人前でやる気になれよ)。

 2011年の東北大震災をきっかけに「明日どうなるかわからない世の中ならば、好きなことしたい!」と、鹿児島のカフェやらBARやらレストラン等で「弾き語りさせてくれー」を開始。 Youtubeにあげてた動画を観たWALK INN STUDIOの野間太一氏が「なにこのおばちゃん」と面白がってくれて「MONGOL800キヨサク氏のウクレレ弾き語りツアーでモンパチの歌カバーしてくれる?」と依頼してくださり、キヨサクさんご本人の前でモンパチを歌うという珍しい経験をさせていただ毛ました。その後周囲の友人知人から急に"へえ、やるじゃん感"の発言が相次ぎ「私、シンガーソングライターやってます」と、名乗れるようになりました。

そんなこんなで家業のパン屋も手伝いながら、音楽活動を本格化。 2015年、2018年、2019年(SOLDOUT)は鹿児島キャパルボホールでワンマンライブ。 2017年の鹿児島LIVE HEAVENワンマンライブ(SOLD OUT) 。 2018年カフェライブ「change gears」(SOLD OUT)。 その他数え切れないほど多数のステージを演ってきました。素晴らしきミュージシャンの皆様ともご一緒させていただけるようになったり、中高生の時大好きだったバービーボーイズのイマサさんに自分の楽曲を褒めていただけたり、南日本放送(MBC)さんのラジオでパーソナリティさせていただけたりと、冗談のような(訳→信じられないような)40代を過ごしております。

そして2021年に乳がん発覚。2022年1月に手術。入院中もラジオ制作&企画を続け、2022年3月には公表。変わらず、日常生活を送っております。今年は入院中に作った楽曲でアルバム制作を完走する予定です。

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