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また試されている。まだ試されている。

辛い時をやり過ごすために、「今は試練のときで、私は試されている」と思うようにすることが、私には役立っていた時期があった。いったい何に試されてるのかは、よく分からなかったけれど。

そして、繰り返される試練を重ねるうちに、「課題は乗り越えるまで繰り返される」と感じるようになった。乗り越えなければいけない課題は、何かを学ぶまでずっと起こり続けるのだろう、と。

例えば、夫の私への非難。ずっと夫からの批判ほど、受け止めるのが難しいものはなかった。でも、自分の良いところ、悪いところ、すべて含めて自分をまるごと認めていれば、夫に非難されても心を乱されることはないと気づいた。それに気づいてから、そういえば夫からの批判がしばらくない。逆に最近は、感謝ばかりされて恐縮する日々。どうやら、この課題については乗り越えて、試される日々が終わったらしい(と思いたい)。

娘の怪我もずっと繰り返されている。つい最近、娘はまた膝に大きな怪我を負った。今までで一番大きな怪我かもしれない。また試されている。きっと学ぶべき大きな課題があるのだろう。

振り返ってみると、娘の怪我に関して、私は良い病院や治療方法を探すことなどの物理的なサポートに力を入れていた。そして、長い間迷走したけど、頼りにできる病院を見つけることができたのはよかったと思う。

でも、娘の心のケアはどうだろう?一番辛いはずの娘を前に、私ががっかりしたり、怒ったり、落ち込んだり、焦ったりして、娘をもっと嫌な気分にさせていた気がする。娘の気持ちを第一に、理解しようとしながらサポートしていなかった。こんなに大きな怪我をしてから、気づくなんて。肩を怪我した時、原因を探るためのテストで驚くくらい大きな注射をされながらも、私の方を見て微笑んだ診察台の上の娘を見て、泣きそうになったのに。何よりも、娘を精神的にサポートすべきだったのに。今さらだけど、やっと気づいた。だから、もう娘には怪我で苦しんで欲しくない。もう試されなくてもいい。もう私は学んだから。

息子に対する不安も、だいぶん良くなってはいるけれど、まだ繰り返されている。良い時も悪い時も、安定に執着も慢心もせず、誰にでも不安定な時があることを認めて、ありのままを受け入れよう、調子が良くても悪くても、ただいてくれるだけでいい、と思うようにしている。それでもまだ、私は何を試されているのだろう?何を学ぶべきなのだろう?

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