僕と震災
今日は陸前高田市内に泊まっている。前泊地の盛岡から山田線で宮古に入り、三陸鉄道を南下しながら被災地を巡った。僕がなぜここ数年で突然被災地に関心を持ち始めたのか、なぜ11年前ではなく最近なのか、思いつきで書き連ねただけの読みづらい駄文ではあるが、記録として残しておきたいと思う。
震災当時、僕は小学3年生だった。東京に住んでいた。当日はちょうど短縮授業で、揺れを感じたときには家に一人でいた。今日まで21年生きてきた中で感じた最大の揺れは、今でもあの3.11である。
その日の夜は、テレビで何度も津波の映像が流れ余震が繰り返し襲ってくる中、僕は床にへばりついて漢字ドリルか何かをやっていた。「東北」と言われても行ったことはないし、津波と言われても見たこともないし、どこか遠くの世界でよく分からないことが起こっていて怖いなあという認識しかなかったような気がする(記憶はかなり曖昧だが、少なくとも今感じているほど重大な事象だとは捉えていなかったと思う)。災害の大きさの実感は全く湧かなかった。
時は変わって中学3年の修学旅行、行先は震災から5年を迎えた東北だった。3泊4日の日程の中には当然震災学習も含まれており、三陸鉄道の震災学習列車をはじめ、気仙沼や釜石などを訪れた。なぜだか分からないが、この時も他人事感は拭えなかった。語り部の方の熱のこもった臨場感のある体験談、目の前には建設中(完成していたかもしれない)の防潮堤、至る所に貼られた津波浸水高の印。それでも自分事にはできなかった(今思えば原発事故などの政治的側面を若干忌避していた面もあったかもしれない)。当事者間の無さは結局高校卒業まで続いた。
転機は大学入学と同時に諸々の自由度が高まったことである。初めて一人で外泊をし、知らない土地を訪れた。地理の教科書やインターネットでしか見てこなかった人々の生活や営みが、急激に身近になった。それまでも友達と年数回ほど日帰り~1泊2日程度で遠出することはあったが、一人旅で見る世界はまたどこか異なっていた。日本各地に人は住み、人の数だけ生活があり、日常があるのだというごく当たり前のことを、そのとき僕は初めて真に実感できたのかもしれない。
2020年11月。9年ぶりに全通した常磐線の仙台行き特急ひたちの車窓から、僕は初めて被災地を見た。テレビや教科書で見てきた"現実"が、突然目の前に現れた。仙台で特急を降りたその足で野蒜を訪れた。字面でしか見たことのなかった「高台移転」とはこのような大変なことなのか。「未曾有」とはこのようなことなのか。ほんの一面しか見えていないにも拘らず、言葉の重みが濁流のように襲ってきた。
翌月、改めて18きっぷで福島県浜通りを訪れた。楢葉町に泊まった。大野で降りた。町は、時が止まったように静かだった。リプルンふくしまを見学した。廃炉資料館を見学した。僕が関心を遠ざけていたこの9年間、数えきれないほどの人が復興に取り組み、元の生活を取り戻し、もしくは未だに取り戻せずにいた。
2021年の最長片道切符の旅では、BRT版を選んだ。BRTという交通機関に興味があったのが主な理由だが、今思えば頭の片隅には震災があったのかもしれない。奇跡の一本松と南三陸町を訪れた。
映画『すずめの戸締まり』が公開され、2回見に行った。ネタバレを避けるため詳細は伏せるが、様々な日常描写が僕の旅行の原点と重なり、深く心に響いた。そして今日、三陸を巡った。失ってしまった11年を取り戻すように、僕は今も東北を訪れている。