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私は友達が少ない。でも世界は広くて、いろんな人がいて幸せだ。

こどものころ、私には友達が少なかった。でも、困っていなかった。

大人になった今でも人を「好き」「嫌い」はわからないけど、たぶんそれなりに幸せだ。友達がいて居心地がいい場所で、居心地がいい人に囲まれていると思えているからだ。

カーストの外側だった子ども時代

学校が終わって家に帰れば、家の手伝いや一人遊びなど、やることはあった。学校でのグループ分けでは、(今思うと、先生は困っていただろうが)最後には誰かが声をかけてくれた。

小学校高学年の時の出来事だ。

クラスの中で問題があって、クラスのほとんどの女子児童が学校を逃げ出したことがあった。計画をしたのは、クラスの中でもリーダー的な存在。逃げ出したグループにはそれに共感した人も、「●●ちゃんが言うから」と自分の意志なく、着いていった人もいただろう。

同じクラスなのに、私は逃走計画を知らなかった。昼休みが明けたら、クラスの女子のほとんどがいなかった。クラスに残った数少ない女子の一人が、逃走計画を先生に伝えた。子どもが携帯電話を持たない時代だったので、先生たちの大捜索が始まった(と思う)。その逃走事件は、1時間も経たずに発見され、学校に連れ戻され終わったのだが、私の心には「誰も教えてくれなかった」という孤独がのこった。

クラスの女子からは「いない」人だったのだ。

「無理して付き合わなくていい」と教えてくれた母

小学校から公立中学校に上がった。複数の小学校から集まる学校だったが、そこでも私には友達が少なかった。

中学になっても、相変わらずグループ分け・班分けがあったが、余っていると誰かが声をかけてくれたので、私自身は困っていなかった(周囲は困っていたと思う)。

中学2年生になり、教師になって2年目の若くて熱血漢の先生が担任になった。彼女は私がグループに入らないのをとても心配して、よく声をかけてくれた。彼女からは「友達のいない可哀そうな子」に見えたのかもしれない。

先生の声掛けは、私にとっては面倒なものだった。しかし、あまりに心配してくれるので、友達がいないことが悪いことであり「友達がいないことは人間として劣っているのではないか」、とすら考えるようになった。

秋頃に進路を考える三者面談があった。担任は私に友達がいないことが心配なことを母に伝えた。そのとき母が先生に言ったことを今でも覚えている。

「狭い世界で、合わない人と無理をして付き合う必要はないと思っている。」

母の言葉は、私を100%肯定してくれた。人との付き合い方はこれでいいんだと考えられるようになった。

人との距離感を覚えた大学時代

高校・大学に入ると、能力・思考・志向の面で近い人が多くなる環境が増えてきた。

高校は進学校で「勉強を自主的にする」人が多く生活スタイルも似ていた。ようやく友達と呼べる人ができたのはこのころだ。といっても、勉強も部活も忙しくて、登下校も一緒・休み時間も一緒という友達ではなかった。ドラマのような「今日の放課後何する~」みたいな女子高生の友達にはならなかった。

大学に入って、さらに加速する。同じ授業を受ける人はたくさんいる。授業毎に一緒に受ける人が変わるから、その時ごとに必要なコミュニケーションを必要なだけ、または自分がかかわり対応と思う分だけ取るようになった。

こうしてようやく私は自分らしい人との距離感を覚えた。
ようやく長い付き合いになる友人ができたのも大学時代だ。

ようやく出会った親友

大学を卒業して就職した。日本企業の風土が残る大企業だ。
職場の付き合いは多かったし、いわゆる「仲良い」が美徳のような会社だった。しかし、仕事ができていれば必要以上に仲良くすることは求められなかった。今思えば先輩も後輩も遠慮+敬遠だったのかもしれない。

この会社で「生涯の親友」と呼べる人との運命の出会いがあった。
いわゆる仕事ができる人。周囲との連携がうまく仕事を進めるが、必要以上に群れない人。お互いに似たものを感じたのかすぐに友人になった。
自分が欲しなければ一緒にはいない。一緒に旅行に行っても、行きたいところが違えば別行動。お互いに気持ちがいい距離感を保つことができるから長くいられるのだと感じる。

親友と呼べる人に出会って、ようやく自分の居心地のいい場所を見つけることができた。

居心地のいい場所はどこかにある

今ふりかえれば、片田舎で1つの学年が100人にも満たない中学校の中で、価値観が一致して友達になれるなんて、すごいことなのだ。きっと、友達がいる周りの人の中身は、「この世界で生きていく」ために頑張っていたのかもしれない、と思う。

自分が生きていくためにな人間関係はある。それは無理も必要だとわかる。
しかし、居心地よく生きていくために必要な場所が目の前になければ、外に求めればいい。

狭い場所にいると外があることすらわからない。
でも、その狭い場所の外は確実に存在する。

わたしは苦しかった。だけど、今は幸せだと思える。
まだ社会に接しているから苦しい人間関係はあるけれど、幸せな人間関係があると知ったから、苦しい関係の付き合い方(あしらい方)もわかってきた。

幸せすぎないでよかったのかもしれない。

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