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「誰と食事をするか?」を自問する

これが私が誰かと食事に行く時の基準だ。
我ながら生意気だと思う。でも譲れない。

ちやほやされたけど楽しくなかったころ

大学生の頃。
私が所属した部活は数年ぶりに複数人の部員を迎えた。先輩(当時20代後半から40代)からは蝶よ花よのもてなしっぷりで、大歓迎だった。理系の大学で女性が少なかったから、というのもあっただろう。
 「先輩がごちそうするもの」
 「男性が女性にお財布をださせるなんて」
というもとで、先輩との食事はごちそうされっぱなしだった。
 
結構いいものをおごってもらった。
でも、まだ幼かった私は、その場所にいることが面倒に感じていた。でも、先輩だから断れなかった。また貧乏学生だった当時は有難さもあった。

でも、その時間が嫌いだったし、もったいないと感じていた。

高いお寿司をごちそうになって、聞いてもわからない話に付き合うよりは、マクドナルドで同級生と話していることやゼミで先生や先輩とディスカッションしているほうが何倍も充実していた。

「自分が相手の分も全額払ってでも食事に行きたい人と行く」

大学を卒業して就職して、お給料をもらうようになったときに決めた。

自分が食事をする時間を自分のために、自分が時間を使いたいと思う相手のために使いたかった。

仕事での付き合いもあるから、すべての外食をそうするわけにはいかない。仕事の特性から接待されることもあった。

それでもプライベートはぶれない。
決めてから20年、決めたことに後悔していない。

でも、今思うことは「ありがとう」

自分が年を取って、若者にごちそうするために声をかける側になってきがついたのは、先輩たちの気持ちだ。

あの頃はわからなかったけど、先輩たちなりに私を(または私たちを)気遣ってくれていた。楽しませようと話題をひねり出すと、つい生活の中心にある仕事の話になってしまうのだ。若者が就職や人間関係の愚痴をいえば、つい仕事の後輩のようにアドバイスしたいんだ。

そう思えたら、あの頃に時間に感謝できるようになった。
先輩、ありがとう。

でも、ぶれないけどね。

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