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私の「メンヘラ学」と精神分析学という処方箋の提示:共感/特異とドゥルーズ



0. はじめに

 「社会がクリーン化に向かっている」という話は社会学においても哲学においてもよく議論されるものです。善かれの精神が人々の意志・行動といったものを一元的に管理する方向へと働く。予測可能性の高い「合理的なもの」を「正常」、予測可能性の低い 「不合理的なもの」を「異端」扱いし、二元論的に区別することによって更なる「合理性の圧」が高められる。このような議論は特に「自己家畜化」という文脈においてよく 語られ、社会批判的なニオイを醸し出している。
 筆者は敢えて、そんな社会の有様に善/悪をつけることなく、非政治的に見守ろうと思います。しかしながら、芸術的立場から「合理性の圧」がもたらす「感情の放棄」を批判し、現状「共感の全肯定と特異の軽視が行われている」という視点から「メンヘラでも生きやすい社会へ」という目的性のもと筆を執った。私自身、割と「メンヘラ」ですが、だからこそというのもあり、「生きやすさ」を伝えられると考えています。

1. 「共感してくれ!」という圧

 この社会が人々に対して「合理性の圧」を少なからずかけていることは前章の通りですが、私たちもまた自らの意志によって「合理性の圧」を内面化しているはずです(=超自我)。昨今のコスパタイパ志向もその系譜だろうと思う。「パフォーマンス」という目的性を前提として「費用(コスト・タイム)」の最小化を図ることに対する積極的姿勢が最近では(特に Z 世代においては)私生活にも内面化されたということは 「合理性の圧」が自己監視的に作用することを意味する。熊代(2024)『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』では、そのような「合理性の圧」に着いて行けず、何かしらの精神疾患を抱えてしまう人間の存在を指摘し、セロトニン注射などの精神医療法による無理矢理の「家畜化」にも限界があることが述べられている。   
 このようなことを踏まえ、私たちは着いて行けない人を「異常」扱いするという方法自体に対して疑問を呈する必要がある。というのも、そのような自己責任論的方法は自分の首をも締める故、何も問題を解決しないどころか、より事態を悪化させるだけだから。
 善かれの精神が生み出す弊害は単に閉塞感を生じさせるだけではない。最近、「需要者中心主義」的な考え方が広く受け入れられているように思う。例えば、本なんかでは「読みづらい・分かりにくい本は悪である」「できるだけ読者にやさしい文体でなければならない」という言説が割と一般的に許容されている気がする。それは一見ありがたいことのように思えるが、「より簡潔に」「よりやさしく」の精神がむしろ読者の 「レベル」を下げかけない。それは思ってもない事態です。私たちは善かれにある程度、抗う必要がある。
 突然ですが、「共感性が高い」とはどういうことでしょうか。それは私が考えるに 「日常感溢れる」とか「遭遇しやすい」という現象に対して言われることでしょう。 「それな!」とか「わかる!」という言葉が共感性の高さを表す語彙の代表格だろうと思います。「あるある」というコンテンツが 1 つの芸風になっていることからも、 人々が共感を求める傾向にあることがよく分かる。というのも、人間は他人と感情を 共有したり、何か物事を共に完遂したりすることに喜びを感じる存在で、「自分だけ」 という自我の特異性に過度に固執することはむしろ精神を病ませかねません。これまでの合理化という文脈も根源的に「みんな共感してくれるだろう」という期待があって「合理性の圧」を自他へ負荷させていると考えれば、「共感」と「合理性の圧」というのは切っても切れない相補的な関係だといえるでしょう。それが「クリーン化」という現象なのです。
 先ほど、自我の特異性に固執することが「不健康」であることを述べました。ここが重要な点で「メンヘラは自我に固執する(共感をはねのける)」、私はこのように提言したい。これまで色んなメンヘラに関する言説があろうと思うが、私は「自我への固執」という点からメンヘラを解剖したい。それは私自身の経験則的なものでもあります。
 例えば、メンヘラは他責思考の傾向があります。「毒親」「親ガチャ失敗」色んな表現があるとは思いますが、それは全て「外的要因によって自分が傷つけられた」という根拠から現時点での「至らなさ」を言い訳するという構造になっている。勿論すべてがそうとはいいませんが(これまでもこれからもずっと「傾向論」です)、最初に何かしらの被害者意識があって、そこから脱却するために過去の家庭環境を持ち出すことで、ある意味、自分の責任を外部へと転嫁している。しかしながら、メンヘラの構造は一筋縄ではいかない複雑な部分があります。
 それは何かというと、パッと見、特殊な過去を持ち出すことで「私はあなたとは違う!(私のことなんて全然わかってもないクセに!)」という意志が見えるが、その裏には「こんな惨めな私に共感してくれるだろう」と共感への期待があることです。これは実に興味深いことだと思います。
 私は別にメンヘラでもいいと思っています。というか、全人類メンヘラだと思っています。というのも人間は「共感性なくては生きていられない」ことと同様に、「共感性のみでは生きていられない」からです。そこで共感性から離れた場所として行きつくのが「自我の特異性」ということになるわけです。「ありのままの自分」なんていわれたりするものについての話です。しかしながら、世のいう「メンヘラ」が厄介者扱いされるのは、その特異性を共感してほしいという矛盾を孕んでいるからで、独り善がりな不幸自慢をしたり、共感を強要したりするなどの感情の露悪なしに、単に「共感してほしい」「でも、私という人間の特別さを受け入れたい」と思うことはごくごく自然なことです。逆に、そんな感情を持ち合わせない人がむしろ「不健康」的だといえるかもしれません。

2. 精神分析学という処方箋

 「特異性の共感」という矛盾的な欲望と私たちはどう付き合うべきでしょうか。明言しておきたいことは、「自我の特異性」とは自分で紡ぐもので、目を背けたくなるような嫌な部分含め、自分で認めてあげる必要があるということ。それは辛いことではありますが、「自分を愛してあげる」とは概してそういうものです。逆に、そこに他人から共感を求めてしまったら、既に「自我の特異性」とはいえなくなるでしょう。自分で自分を解釈し、嫌な部分含め自分をそっくりそのまま許容する。難しいことではありますが、その過程こそが人生だとすら私は感じています。
 精神分析学という分野はそのような「自分で紡ぐ」という点に深く依拠した学問です。私もまだまだ勉強中で専門的な話は出来かねますが、精神に対する医療行為として「治療してもらう」という外部からの解決は 1 つの重要なアプローチですが、「自分 で紡ぐ」という努力を忘れてはいけないと思っています。というのも、ホルモンバランスの改善等で表面的に改善したところで、根源的な「自我の特異性」に見向きしない時点で、むしろ事態を後回しにしているといえるでしょう。重要視すべきは「自分の嫌な部分という特異性そのものを認めてあげることによって、共感なしの自己理解を可能にする」という方向性。そしてそれは精神分析学という学問に見出せるもので す。

3. ドゥルーズ哲学の可能性

 最後に「共感なしの自己理解」という点についてお話させてください。一般に共感してもらえる自分というものを「共感的自我」、逆にドン引きされるかもしれないような自分の嫌な部分を「特異的自我」というように呼ぶと、社会的にうまくやれる、要領の良い生き方とは「共感的自我」の拡大によってなされるといえるでしょう。しかし、自我とは「共感的自我」だけではない。「特異的自我」という領域も存在するはずです。そして「特異的自我」は共感されない(共感されてしまった時点で「特異的自我」とはいえない)、したがって「自分で紡ぐ」必要があることを述べました。共感なしに「自分で紡ぐ」ということはある意味、無目的な行為であるといえるでしょう。 無条件の愛情を自分に対して注いであげるということ。そこです。「自分で紡ぐためには、自分の無目的性を認めてあげる姿勢をもつ」必要がある。
 無目的性の肯定というのはポスト構造主義の哲学に見出せるものです。特にドゥルーズという哲学者がいますが、彼は「同一性から差異へ」ということを述べている。 それは「共感性から離れて特異性へ視点を向ける」というこれまでの話と若干近しいものです。詳しくは自分が語るよりも賢い人の本を読むほうが早いでしょう(自分では力不足です)。ポスト構造主義への入門としては千葉雅也『現代思想入門』がよろしいかと。ドゥルーズへの案内としてはまだ私自身手探り状態なのではっきりしたことは言えません。一緒に勉強していきましょう。
 全体を通して振り返ってみると、「クリーン化」という社会学的知見からスタートして、「合理性の圧」に着いて行けない「メンヘラ」の存在を指摘。「合理化」と「共感」を結び付けた上で、「共感」では解決しきれない「自我の特異性」とどう向き合う かという問題について精神分析学という処方箋を提示しました。そして精神分析学的なアプローチには「無目的性の肯定」という壁が存在し、そこにポスト構造主義、専らドゥルーズ哲学の可能性を見出しました。何かしら読者さんなりの「意味」を見出 してもらえれば幸いです。
 哲学という学問分野は最近、注目されつつあるように感じます。哲学に関する著書が文庫化されているのを見ると、何とも嬉しい気分になります。しかし(これは専ら自分への戒めとして言いますが)、哲学とはいえど、ある程度の「枠組」に沿って学習する という気持ちを持つ必要があります。哲学とはダラダラしようと思えば、幾らでもダラダラできる学問です。そこで今一度、ダラケを自覚して哲学と向き合い直す必要がある。

参考文献

・片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』誠信書房。
・千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書。
・熊代亨『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』ハヤカワ新書。

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