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醜いリンゴ

文字数:2163字

 作家というものは、時に変った視点から私たち読者に真実を訴えようとする。変だと思いながらも、その魅力に取りつかれたように読んでいくものだ。
 その変な作家の1人にシャーウッド・アンダーソンがいる。彼の著書『ワインズバーグ・オハイオ』はその観点から見るならば、魅力のある小品と言える。
 私がこの小品の中で最も気に入っている個所は「ペイパー ピルズ」という章の挿入話として書かれたものだ。
 ワインズバーグというコミュニティーにある果樹園のリンゴの話だ。秋も深まり、リンゴは殆んどがもがれて売りに出されてしまっている。町の人々はそのリンゴを食べている。
 ところが地面が凍りつくような季節になっても、2~3個のリンゴがまだ樹にぶら下がったままになっているというのだ。それらのリンゴはその形がいびつで醜いために収穫されずに取り残されたものだ。
 私はアメリカに行って多くのことに驚いたり感動したりした。その中の一つに(これはほんのちょっとした感動に過ぎないものだが)スーパーマーケットで売られている商品に関するものがある。
 初めてアメリカのスーパーマーケットに行ってその山と積まれた品物を見た時、私は日本もそのようであれば良いのにと思ったものだ。例えばキュウリだ。ひねくれたように曲がったものもあれば長さも不揃いだ。アメリカにも日本と同じみかんを見つけて懐かしがったものだが、そのみかんはどれも器量が良くなかった。形がいびつだし、しなびていていかにもおいしくなさそうな風体をしていた。何もかもがそんなふうであったわけではないが、内心ほっと心が温まる思いがしたものだ。
 私が住んでいる近くに野菜畑があって収穫期には畑の一角に捨てられた野菜を見ることになる。短すぎる大根。大きすぎてかさぶたができているようなトマト。先太になったキュウリ。形が小さすぎるキャベツ。
 ワインズバーグの果樹園に取り残されたリンゴは、よほど形がひどくて、人々の食欲をそそるなどとは程遠いものだったに違いない。
 この本の最初の章のタイトルが「グロテスク」だというのも私にそう思わせる引き金になっている。アンダーソンは人間の心の中にあるグロテスクなものを私たちに示しながら、人間の本性を暴き出そうとしている。そして、私たちが「グロテスク」だとするものの中にこそ、本当は人間の持つ素晴らしさがあると言おうとしている。
 形がいびつで醜いリンゴは樹の上で収穫されるのを今か今かと待っているのだろうか。ただ虚しく樹にしがみつき、やがて重力の法則に従順に従って地面にたたきつけられ、朽ちて行くのだろうか。
 アンダーソンはそんなリンゴに生きがいを与えようとしている。市場に出されていった、形もよく人々の食欲をそそる多くのリンゴよりももっと多くの味を与えようというのだ。
 やがて果樹園に一人の人がやって来る。彼は一本一本の樹に寂しそうにぶら下がっているいびつな醜いリンゴを一つ一つもぎ取ってポケットに仕舞い込む。さも大事そうに仕舞い込むのだ。ほとんどの人が知らないことを彼だけは知っている。いびつで不格好なリンゴこそは間違いなく甘い味をしているということを。
 もしかしたらこのリンゴをもぎ取っている人とはアンダーソンその人なのかもしれない。彼自身が「グロテスク」でいびつなリンゴそのものなのだから。
 聖書にはそんないびつなリンゴがたくさん登場してくる。イエスを裏切ったペテロしかり。その釘のあとに指を差し込まなければイエスの復活など信じるものかと豪語したトマスしかり。完璧に思えるパウロにしても、ステパノの殺害に手を貸している。その姿はやはり木に残されたリンゴの姿だ。
 旧約聖書にだっていびつなリンゴはたくさん書かれている。自分の力でユダヤ人をエジプトから救い出そうとして、エジプト人を殺すという殺人罪を犯したモーセ。兄の相続権をスープで奪い取ったヤコブ。自分の部下の妻を横取りし、その部下を激しい戦闘で死に至らせたダビデ。神の命令に従わなかった結果自分のロバにいさめられた預言者バラム。
 私たちはワインズバーグというコミュニティーにある果樹園に取り残されたリンゴそのものなのだ。普通ならだれからも相手にされることもなく、期待されることもない一つの醜いリンゴにすぎないことを思い知らされる。自分でも重力の法則を待つしか生きるすべを知らないかのような、いかにも美味しくなさそうなリンゴであることを認めざるを得ないのだ。
 しかし、忘れ去られているようなこの果樹園にアンダーソンが来たときから状況は一変する。誰も目を止めることもなかったいびつなリンゴに目を止めて、じっと吟味するように微笑むようにして彼は見るのだ。私たちはこの果樹園のリンゴそのものだとすれば、失われたはずの私たちの心は生き返り、死んだはずの魂がよみがえり、傷ついたはずの私たち自身の傷が見事に癒されてきたのだ。
 「グロテスク」な一つのリンゴが、その味を見出されて他人に喜びを与えるものとされる瞬間だ。その瞬間は、その後、点としての時間から、線としての時間へと移行される。アンダーソンの手に握られたその時から喜びが泉となって湧き出て、その泉は枯渇することなく流れ続けるのだ。彼の手に握られている限り・・・。



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