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見えるということ

 文字数:6468文字

まえがき

 (少し長い記事になりますが・・・いつものように、我慢にがまんをお願いします)

 最近、知人からメールが届いた。カナダからだった。

 カナダの自然を満喫するプランを立てていたらしい。ところが、その観光プランを実施する段になってみると、体に異変が・・・!

 発熱・・・痛み・・・しびれ・・・

 結局、無念のリタイア! 旅のキャンセルはつらい。
 知人とのメールのやり取りをしているときに思い出した。同じような経験を思い出した。
 この記事はその思い出から出発することになる。

LA一人旅の悲劇

 私は2016年7月初旬に10日間のロサンゼルス訪問の一人旅をした。

 出発の10日くらい前に顔面がピリピリする痛みとしびれを感じて病院に行った。そしてこれは帯状疱疹だとの診断を受けた。妻が数10年前に帯状疱疹でしばらく入院したことがあったので、これは困ったことになったと思った。

 案の定、医師の提案は入院だった。
 私としてはそれは困ると思い断った。

 この一人旅はどうしてもしなければならないものと思い込んでいたからだ。理由の一つは、予約していた飛行機のチケットは解約できないチケットだったし、ホテルの予約もお金を払い込んでいたからだ。

 もう一つは、右顔面に出来た病巣だったからだ。医師によれば、顔面のそれは少しずつ上に上がって、ひどいときは右目の視神経をやられる可能性もないことではないというのであった。
 
 それならば、どうしてもこのロサンゼルス行きはやめるわけにはいかないと思った。視神経をやられたらもう見えなくなるということだから、見えるうちに見ておこうという気持ちになっていたのである。

 何しろ、1970年に訪問して以来の一人旅だ。複数で行ったことはあったが、その年の一人旅は昔訪れた場所を再訪しようという自分にとっては特別企画の旅だったのである。

私が30歳の頃だ

 授業をしているときに黒板に英語を書いたりする。その板書を見て生徒がざわつき始めたのだ。私が生徒にどうしたのかと問うと、「先生、字が曲がってる」というのである。よく見ると確かに曲がっていた。生徒たちと大笑いしながらふと、うしろの黒板を見て、心の中で「あっ」と小さく叫ぶ。

 その黒板は大きく湾曲にうねっていたのである。
 
 その頃、私は目に違和感を感じていた。光が必要以上に目の中に飛び込んでくる気がしていたのだ。まぶしいのとは少し違う感覚だった。そんな話を同僚としていると、みんなが病院に行くことを勧めるのだ。
 
 仕方なく授業の合間をぬって、保健室の教員が勧める眼科医院に出かけた。ここはとても患者の多い人気病院なのだ。病院の入り口付近まで人であふれていた。ある程度待って順番が来なければ出直そうと思っていたその時、「あの患者さん(本当は私の名前を◇◇先生と言ったのだ)を入れて」と看護師さんに話す医者の声がしたのだ。

 実はこの先生には一度会ったことがある。教師1年生の時にお嬢さんを担任していたのだ。家庭訪問の時、診療時間を空けて私に会ってくれたのだ。それから何年も経っていたのに覚えていたことに驚いた。この先生は人の顔を覚える天才なのだ。

 「先生、びっくりしましたよ」

 その医師と暗室で向かい合っているときに、左目を覗き込みながら私に言ったのだ。

 「網膜剝離かと思いましたよ」

 そう言って2人で暗室を出た。私は隣の部屋のベッドに寝かされた。生まれて初めての眼注をされたのだ。  注:眼注=眼球への注射

 それからは2,3日置きに病院通いだ。スポイドで麻酔の目薬を入れる。
 
 しばらくそのままで、そのうち先生が先の曲がった針の注射をするのだ。時間が早すぎると麻酔が効いてなくて、目がはれるような痛みだ。だからと言ってなかなか来てくれないと、麻酔が切れてしまってやはり同じ症状だ。学校まで歩いて帰りながらその痛みと戦う。

 大学病院への紹介状

 1年前後経ったころ、医師が私に大学病院を紹介しますから、行ってみませんか?と私に勧めて手紙を書いてくれた。その眼科部長がたまたま私がお嬢さんが中1の時に担任だったのだ。だからと言って、別に何もないのだが、心理的には何となく安堵することができた。
 
 当然ながらいろいろと検査の1日だ。

 そこにはいろいろな患者さんがいた。未熟児網膜症の赤ちゃんの母親などは顔中が心配で満ちていた。クラブ活動で野球のボールが目に当たって失明するかもしれないと、落ち込んでいる高校生の隣に座ったこともある。彼を連れてきた野球部の部長さんは、本当に落ち込んでいた。
 
 そんな中、眼底写真を撮るための造影剤を血管に注入しながら、医師がカメラのシャッターを切る。いつ果てるとも知れない時間の長さだ。

 「もういい加減にしろーーっ!」
 「早く終われーーーっ!」
 「さっさとシャッターを切れーーっ!」

 私はイライラして叫びたくなる。その衝動を抑えることはなかなか大変なことだ。シャッターを押す医師にとびかかるのではないかと自分のことが心配になる。

 写真の次は待合室だ。ここでも造影剤の影響がつづく。突然立ち上がって医師の所へ行き「今すぐしてくださいっ。もう待ちくたびれましたっ」などと言いそうなほどのイライラが募る。
 
 「あの造影剤でぶっ倒れる人もいるんですよ。あなたのはそれからしたら大したことはないですよ」

 自分のいらいらを先生に話すと、先生はこう言って笑った。
 
 その時は、それが私の目の病との戦いの新たな始まりだとは思いもよらなかった。

 この病の名前は「左網膜脈絡膜炎」だ。

 この病の症状は日ごとに進む。脈絡膜は網膜とは膜1枚を隔てているのだから、その症状は網膜にはっきりと映し出される。

 左目の網膜には歪んだ映像が映し出され、車の運転も危険になってきた。

 道路の中央線が私の眼前にはっきりと飛び込んでくるようになったのだ。自分が中央線よりも反対車線寄りに入ってしまったのではないかという恐怖感に襲われる。

 そんな不安を抱え込んだまま車を走らせるわけにもいかず、日曜日以外の車の運転を差し控えることにした。幸い同僚が同じマンションに住んでいて、毎朝毎夕彼の車に乗せてくれた。

 試験の採点も同僚の善意でお願いすることになってきた。

 毎日歩くときに目にする電信柱が、自分の症状の進み具合を確認する道具となる。左目に映る電信柱はビンの底を通して見るように歪曲している。そしてその歪みは日毎にひどくなり、ついには細い糸がフニャッと曲がったように見え始める。

 原因が不明なため、医者が暗室で左目だけでなく時々右目も覗き込みなどしようものなら、不安は最高潮に達する。教師としての仕事を続けられるだろうか、もしだめなら自分にできる仕事は何があるだろうか、といった具合で悩み始める。

 そんなことを考え始めると夜眠ることができなくなる。

 思いもよらずラジオの深夜番組のお世話になる。”オールナイトにっぽん”の視聴率を上げるのに一役かうことになった。

 朝の3時頃になると諦めの境地になってくる。翌日の、いや当日の仕事に差し支えるという新たな不安が襲ってくる。そんなこととも戦わなければならないから、なおのこと目が冴えわたる。自分の将来のことが気にかかる。10年後にはどんな職業についているのだろうかと思案する。

 そんなときにふと聖書の言葉が心をよぎる。

 「明日のことを思い煩うな」

 自分が教師になろうと心に思った時のことを振り返る。神が自分に教師になることをすすめたのだと確信していたことを思い起す。

 もしそうならば、この病気で仕事を失うはずが無いではないか。そのことに気づいた時に不眠症は自然になくなっていく。別な教師の仕事が待っているに違いないと思えてくる。そうなると自分の将来がどうなるのか楽しみにもなってくる。

手術をする

 その頃だ。大学病院の先生が手術をすると言い出した。

 「大した手術ではないですよ。日帰りです。手術後は帰ることが出来ますから。心配するようなことは何もありませんから」

 手術をすることに気楽に応じた。手術室に行くと何人かの人が待機している。みな不安げだ。

 「手術着に着替えてください。シャツも脱いでください」

目の手術だから自分はそんなことまでしなくていいのだと思っていたから、他の人たちと同じ格好にさせられて不安になった。簡単とは言っても手術は手術なのだと思い知る。

 手術台に寝かせられる。
 左目の下の頬のあたりに注射が打たれる。
 麻酔注射だ。
 耳の当たりでゴボゴボと音がして液が注入される。
 そののちに顔の上を布が覆う。
 左目の部分だけに穴が開いた布だ。
 その穴に左目が当たるようにするので先生のすることが全て見える。

 目の手術の嫌な面だ。
 自分の意思とは関係なく像が映る。

光凝固術

 「この前の手術は大変でしたよ。今日のと同じ奴でしたけどね。急に眼圧が上がってきたんですよ」

 誰に話しているのかと思った。手術の助手をしているもう一人の医師に対して、何事もない話でもするかのように話す。
 「ああそうですか」とこちらも何事もないかのように返事をする。

 私の不安を助長しているなどという意識は全く無いかのようだ。

 「そこで慌ててこの辺りを切開して調節したんですよ」

 そんな話を聞きながら、ベッドの私は不安いっぱいだ。

 「ちょっと痛いかも知れませんよ」

 先生の手には確か糸を通した針のようなものがあった。

 しばらくして「痛い」なんてものでは表現できない痛みで、身体が自然によじれる。思いっきり身体がねじ切れるのではないかと思うほどのひどさだ。

 「キャーッ、痛いよーっ、殺してーっ」
 
 聞いたこともないような切羽詰まった女性の甲高い声だ。
 若い女性の声だ。隣の部屋から漏れてきたらしい。何の手術をしているのだろうかと思った。
 声の主の身体がよじれるのを感じるほどの緊迫感溢れた声だ。
そんな声を聞きながら手術が進む。左目に強烈な光が投げ込まれる。光のせいで目が痛むような気がする。

 何回か光が当てられると手術は終わりとなる。
 光凝固という手術はレーザーを当てて患部を焼き、症状の進行を止めるものだ。脈絡膜の毛細血管からの出血をそれで抑えるのだ。

 眼帯をして電車に乗る。翌日それを取る時には、ちゃんと目が見えるようになっているだろうかと思いながらの帰り道だ。人は私の様子を電車の中でボーっとして過ごしているようにしか見えなかっただろう。

 「この目が見えるようになりますように」

 翌朝、眼帯をはずす様子はまるで 儀式でもしているかのようだ。

 私の目の手術はもともと全快するなどというものとは程遠い。進行を防ぐことこそが目的の手術だ。だから眼帯を外しても、前日とは特に何も変わるはずもない。それどころか光を当てた場所が火傷を負うようなものだ。そこの網膜が傷つくだけなのだ。

儀 式

 それでも眼帯を外すしぐさが儀式めくのは、治りたいという意識のためだ。

そっと眼帯を取る。

 目の前の鏡に映る自分の顔。

 右目をつぶる。
 
 左目の症状の確認をするためだ。

 歪んで見える自分の顔。

 特には変化を見いだせない。 
 
 がっかりする気持ち。

 手術に対する期待の大きさと同じくらい大きな失望。

検証作業

 外を歩くたびに相変わらず続ける症状の確認作業。糸くずのように見えている電信柱。

 落ち込む心。

 それでも、神様がどんな解決を見せてくれるのかという、微かな思いが心を和ませてくれる。

 再手術の決定。

 「今回の手術は思い切ってしますから、左目の真中あたり、つまり見ようとする部分が盲点になりますがいいですか。網膜がかなり痛んで像が映りづらくなりますよ。手術をしたら症状の進行が止まるという保証はかならずしもありません。今回と同じ結果になるかもしれません。ただ、手術をしなければ症状が進んで網膜を痛める結果になる恐れは十分あります」

 私は全くためらわずにその場でOKの返事をした。

 そして手術をすることに署名をしたのだった。

 手術をしなければ症状が進行することは毎日自分の目で確認していたからだ。手術で見えなくなる部分が増えたとしても、不安を抱いて毎日を暮らすよりもはるかに良いと思ったからだ。

 左目に充てられる光の量と回数が最初の時よりも多かったことは、素人の私にも分かるほどだ。例の造影剤の副作用もたいしたことはなかった。目玉が動くのを防ぐために目玉を固定する作業も身をよじるほどでもなかった。2度目の慣れからなのか。こんなことには慣れたくない、と思いながら手術が終了する。

 翌日は前回と同じように、眼帯を外す儀式を執り行う。
 期待は一度目を上回る。鏡を覗き込む。
 左目の網膜に映像が映らない部分が思ったよりも大きい。
 それも自分が観たいと思うものの映像が映らない。
 この世に生きている限り網膜のその部分には映像が映らないことを確信する。
 不思議な気分だ。
 何か知らないが大きなものを失った気分だ。

無を見る

 その時以来、私の左目には自分が観たいものの映像が映し出されない。どうしても見たければ右目に頼る。
 右目で見ていても左目には無が映し出される。
 常に霞のような、闇のような影が映し出されるのだ。
 それが右目に映し出される映像にベールをかける。
 
 片方の目の映像が映らないために、私は茶碗にお茶を注ぐときに、未だに時々うまく注ぐことが出来ずにこぼす。

 距離感がないからだ。

 片方の目だけしか見えないと、まるでテレビでマラソン中継を見ているようなものだ。どれぐらいの距離があいているのか皆目見当がつかない。すぐ後ろに迫っているかのように見えるが、横から映し出されると相当な距離が空いていることが多い。あれと同じだ。
 お茶がこぼれて初めて湯飲みと急須の口が離れていることに気づくのだ。

 だから言えるが、有名な聖書の話の一つに、目の見えない人に向かって「わたしに何をしてほしいのか」と言われた時に、その人が
 
 「先生、見えるようになることです」 

と答えているが、私はこの答えに共感を覚える。

 この答えを当たり前のことだと思う人は多いだろう。
 しかし、私にとっては当たり前ではなくなったのだ。

 私の見えない部分には「無」が映し出されると記したが、まさにその通りだ。

 みえないのではなくて闇がはっきりと映し出されるのだ。

 その闇を見るたびに自分の目の現状を追認せざるを得ない。

 その映し出される闇は「絶望」と同義語なのだ。

 「先生、見えるようになることです」という聖書にしるされている言葉には、「絶望」を乗り越える力がある。

 だから、普通の人(目が見える人)にはこの言葉をイエスに投げかける勇気も思いも起こらない。

 「見えない」という現実を経験した者だけが理解しうる洞察なのだ。

見えなくなったのにはわけがある?

 私はなぜ自分にこんな病気が起きたのかと随分考えた。
 自分の将来を考えて落ち込み、眠れない夜が数か月続いたことの意味を考えようとした。

 その答えは意外と早い時期にやってきた。

 発症から2年経ったときに、私は高校1年生の担任となった。

 その自分のクラスの生徒に左目が見えない生徒がいたのだ。そのことを知ったとたんに、私の目が痛んだのは、この生徒のことが分かるためになのだと思えた。

 その生徒が目のことで悩む心が「見えた」気がして嬉しかった。

 他の誰にも見えない部分が、自分の目には見えるようになっていたと感謝したほどだ。

 1人の生徒のおかげで、私は病気になる前よりもはるかに良く見える目を与えられていたことに気づかされた。その後もいろいろな病気に悩まされ落ち込んでいる同僚や、生徒たちの気持ちを、瞬時に理解できる分だけ他の人たちよりも得だと思えるようになった。

 何が得なのかと言えば、「見える」部分が多いからだ。「見えるようになる」ということは素晴らしいことなのである。
 
 
 
 
 
 

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