見出し画像

おやじの裏側 iii (3.ちんつき)

12月も終盤に近付くと、
オレは毎年、ワクワクしたものだ。
 ドキドキしたものだ。
  ハラハラしたものだ。
  
おやじのせいである。
 
おやじは年も終えようとしているのに、全く動こうとしない。
ちんつき(餅つき)の予約をしないといけないのに・・・だ。
子供としてはとても気になる。
 
小学5年生の3月に引っ越してからのことだ。
 
それまでは20数所帯が共同生活をするような感じの引揚者住宅(市が元旅館を買収したもの)に住んでいた。(「SG荘紹介」の記事参照)
 
3階建てのデカい建物だ。
デカいだけではなく堂々としていた。
 
道路面から弧を描くようにして階段を上る。
 
上りきると、右手には見事な庭園。
池の周りにある灯篭。
それを際立たせる植物群。
 
オレの中で一番気に入っていた木は百日紅(サルスベリ)だ。
紅色のフリル状の花がオレを迎え入れてくれる。
勿論、年末年始には花は終わっている。
 
少し歩くと、玄関が大きな口を開けて待っている。
その口に吸いこまれると、これまた大きな上がり框が待ち構えている。
まるで口の中の歯の並びのように段がある。
 
入って左手に2階に上がる階段がある。右手には奥に行く廊下があったような気がしている。でも、滅多にそちらにはいかなかったのだろう、記憶は定かでない。
 
オレが上がり框の正確な記憶がないのは、階段を上がった所にオレの家族が住んでいたからだ。玄関から入って靴を脱ぐとすぐに階段を上る。
 
その上がり框こそが、年の瀬に活躍する場所だった。
 
毎日のようにどこかの家族がもちをついていたからだ。勿論「ちんつき」だ。オレたち子供は、上がり框の上の廊下のような踊り場のような場所に陣取る。餅つきを見物するのだ。
 
2階のオレたちが住んでいる部屋の道路側には廊下があって、ガラスの窓が廊下伝いに広がる。そこから手すりに寄りかかって外の景色を眺めることができる。

すぐ真下に目をやると、SG荘の庭園が目を和ませてくれる。
 
SG荘という名前の引揚者住宅は、道路から上がる階段の上に建っている。だから、見晴らしがいい。今ではバス通りになっている広い道が、山手から岸壁まで続く。
 
当時はバスなど通ってはいない。時折馬車が通っていた。オレたち子供はその荷台に乗せてもらって山手方面まで揺られた。適当に飛び降りる。帰りは下り坂をSG荘まで走って戻る。
 
オレは2階の廊下に出て手すりに寄りかかるようにして下を見るのが好きだった。
 
道路の両側には広い歩道があった。つまり当時としてはメイン通りということになる。そのあちこちでちんつき合戦が繰り広げられる。
ちなみにこのメイン通りは、今も同じ幅のままである。
 
SG荘の玄関を出て道路への階段を急いで降りる。SG荘の上がり框での餅つきがない時だ。

道路を渡ってほぼ向かいの散髪屋さんの前に行くのだ。そこでは餅つきがあることを2階から確認していたからだ。
 
オレはその散髪屋に行ったことはない。

おやじが定期的に手持ちのバリカンで頭を坊主にしてくれていた。おやじは自分の顔のひげを散髪屋さんが使うような剃刀で手際よく剃っていた。なめし皮でシャーッシャーッと気持ち良い音をたてながら、剃刀を磨いていた。
 
散髪屋の前にはすでに人だかりができている。

友達を見つけてその隣で餅つきの見物をする。つき終わると近所のおばちゃんたちが、つきたてのもちを丸くしていく。それをじっと見ているのだ。
 
「ほれ」
 
おばちゃんたちは時たまオレたちにもちを分けてくれる。それが分かっているのだ。それが年の瀬を明るくしてくれる。
 
上がり框では一日中餅つきが続くこともある。それはもう天国にいるような気分になる。正月を待つことなく出来立てのお餅に出会えるからだ。
 
餡餅やきな粉もちなど貰えた時は、思わず持ち場(もちを分けてもらえる絶好の場所)を離れて2階に走って上がる。母に喜びを伝えたい気持ちだ。半分分けたりなどして大いに自慢げな様子を示す。
 
そして慌てて階段を駆け下りる。オレがいた場所は既にない。うしろの方から背伸びをするしかない。分け前が減少する。それでも仲の良いSG荘仲間が受け渡してくれる。オレもそうするからだ。
 
おばちゃんたちからの「○○ちゃん(オレの名前)にもあげて」とうれしい命令が飛ぶ。
 
おなか一杯になって夢のような一日が終わる。
 
終戦直後の食糧難の真っただ中だったからだ。おばちゃんたちもおなかがすくつらさを共有していたからだ。
 
おなか一杯になっていても、次の日ももち狩りは続く。
 
それなのに、おやじは「ちんつき」の話はなかなかしてくれない。そのことに気が付くようになったのは、最初に話した小学5年生の時に引っ越してからだ。
 
オレの記憶にないのではなくて、お餅は近所のおすそ分けで乗り切っていたのかもしれない。それほど上がり框での日々の餅つきは、オレを十分に満足させてくれたのだ。
本当はオレの家族も上がり框でのちんつきに参戦したことがある。ないわけがない。
 
それが、引っ越してからはそうはいかなかった。オレの引っ越し先は田んぼに囲まれていたからだ。近所に家ができる前にオレの家が引っ越したからだ。だから、ちんつきを頼む場所を開拓しなければいけなかったのだ。
 
「お父さん、今年はもちをつかないの?」

「心配しなくてもいい。人が頼まないときに頼めばいいだけだよ」
 
このおやじの言葉の意味は、当時のオレにはさっぱりわからなかった。
 
それが分かったのは、その日が来てからだ。「なるほど」と子供心にもすんなりと理解できる理由があったからだ。
 
「今から行くぞ」

「どこに?」
 
その日が来た時、おやじはオレに声をかけてくれた。
 
「いいからお父さんについてきなさい」
 
そこはM駅の近くにある狭い間口の店だった。その店は包丁などの刃を磨いたりしてくれる。よく通る道沿いにあった。
 
店をのぞいてみると、奥の方に大きなもちを作るうすがある。あんな狭いところでもちをつくことなどできそうにもなかった。まさか器械でつくなんて全く知らなかった。
 
店に行きながら、おやじが教えてくれた。
 
「今日は29日だろ。9が付く日は縁起が悪いと言って、みんな餅つきを頼んだりしないんだ。だから、予約しなくても大丈夫なんだよ」
 
店に行くと、暇そうな店主がイスから立ち上がって、こちらの依頼を受けてくれた。
 
「じゃぁ昼過ぎに受け取りに来ますから」
 
昼食後、オレは兄たちと一緒に”もろぶた”(下注)を持って行った。もちを入れるともろぶたは重かった。もちをたくさん入れた箱を持って家に帰る間、楽しくてしようがなかった。
 
もろぶたは3箱あった。いや、4箱だったかもしれない。
 
くいっぷちが多い家族だからだ。
 
暖房のない時代。
あるのは、火鉢一つだけ。
 

(ネットの無料画像を使わせていただきました)

その火鉢はSG荘の近くにある銀天街の正月のくじでオレが当てた火鉢だ。
オレはあの頃、くじ運が良かったのだ。
 
火鉢から立ち上る、もちの焼ける香り。次々と膨れ上がるもち。
当時は何をつけて食べたのか思い出せない。
きな粉餅。醤油餅。湯餅。
そんな面倒なことをせずにいきなり口に頬張ったり・・・。

兎に角にぎやかなのだ。
寒いからだ。
火鉢というセントラルヒーティング。
もちを食べるとおなかの芯から温まる。

*もろぶた:(料理用の)木製のバットと思っていただければわかりやすい

**「おやじの裏側(まえがき)」から、出だしの一部を書いてみます。
   私は自分のことを「オレ」と言ったこともなければ、父親のことを     
   「おやじ」と言ったこともありません。
    おやじはキリスト教会(プロテスタント)の牧師です。
   牧師としての顔が「おもての顔」ということになります。
   教会員からすると、「うらの顔」は、主として家庭で見せる顔と言え 
   るのでしょうか。
   オレはその両方を覗くことができる立場にいたのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?