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窯  元

文字数:1232字

 福岡県の飯塚市の先に焼き物の里が数キロごとに続いている場所がある。上野焼の青は、私を初めて焼き物に目を向けさせてくれた色だ。その先を行くと、良く知られている小石原焼がある。この辺りの山間を車で走っていると、窯元の看板が続々と目に入ってくる。その焼き物市場から更に数キロ降ると宝珠焼の窯元が私たちを誘う。
 私の妻が友人から宝珠焼のある窯元のことを耳にしたのが、そこに時々車を走らせるきっかけになった。その窯元が身体障害者の方だという単純な理由だ。
 取り皿を買いたいという妻を乗せて、どうせ買うならそこにしようということになった。それは同情からではなく、身体のハンディがある分、心を込めて作っているに違いないと決め込んだからだ。焼き物のことはよく分からないが、私はこの判断は間違っていなかったと思う。
 その証拠に、私の気に入っていた上野焼も戸棚の奥に押し込めて、この宝珠焼の湯呑茶碗で私は毎日お茶を飲む。青と紫が混然一体となった不思議な色の輝きが、安いその茶碗に私を引き込む。
 その店先に釉薬うわぐすを塗っていない失敗作がたくさん積み上げられていた。断ってその中から1つ2つ拾って帰った。しばらくどうでもいいことのために使っていたのだが、焼いていないのですぐダメになってしまった。
 どこの炭鉱での話か忘れてしまったが、こんな話を読んだことがある。
ある鉱夫が機械を包む布で作ったシャツを着ていたのだが、そのシャツの背中には「壊れ物につき注意」と書いてあったというのだ。
 このシャツを着ているのは健康そのものの鉱夫である。頑強でどこから見ても男らしく仕事に自信を持っている。それは不安を押しのけて自分の力で前進しようとする人の姿を見事に具現したものなのだ。
 実はこのシャツこそが私が着ているものなのだ。否、「人間」と言われる存在は全て自分では気づかないままにこのシャツを身につけているのだ。外見は何の問題もないが、釉薬(うわぐすり)を塗っていない土器にすぎないのだ。 釉薬はおろか熱い炎にもさらされていない土器なのだ。長期間の使用にとても耐え得るものではない。
 炎に焼かれない「人間」は、いくら強く逞しく壊れそうにない存在に見えても、すぐにその真の姿がさらけ出される。人に見えなくても当の本人の心がそれを暴き出している。気づかないふりをしているだけなのだ。
 それにひきかえ、釉薬を塗られその炎に焼かれている者は、その姿、形がどんなに「壊れ物」に見えたとしても、それはちょっとやそっとでは壊れるものではない。人の心を打ち、感動を与える生き方をすることが出来る存在なのだ。
 どんなに安価な湯飲み茶碗であっても、それがどんな土でこねられたものであっても、釉薬がかけられ高温で焼き付けられているならば、ずっと長い間使用に耐えるのだ。
 不安いっぱいの前進も、知恵が湧いてくるのだ。問題が起きても解決の道は私たちの予想外の場所にあることを知ることになるのだ。

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