退職するとの決断
職場が嫌なら退職すればいい…
若い人によく見られる傾向ですが、周りは虐めていないのに、何故2、3ヶ月しないうちにいきなり辞めてしまうのか?
不可解なところです…
2010年頃、当時はまだ就職氷河期であり、当時アラフォーだった私にとって退職は危険を伴うものでした。
幸いにして国家資格を所持していたのですが、それでも就職先を探すのは困難でしたね…
当時、私の頭の中では計算していたことがあり、厚生年金は15年間払っておこうという頭がありました。
とは言うものの、16年間の社会人生活の中で離職していた時期があったので、卒業から現在にかけて15年分の厚生年金を払っているとは限らなかったんです。
(当時は厚生年金を15年、国民年金を25年払っていれば満額貰えると言われていた時代だった)
主任という立場を捨てる
当時働いていた特養では主任の肩書が付けられていました。
この特養に入職したのが30手前位。8年以上働いていました。
(ブラック企業だったので、身も心もドロドロでしたが)
母に職場の人間関係が劣悪なことを話すと、人の不幸は密の味のごとく面白がるので、敢えて人間関係は問題ないとは言っていましたけどね。
毒親に相談したところで、親身になって話を聞いてくれるわけではないので…
なので、うちの母はこの特養が泥臭い施設であることを全く知らなかったんです。
当時は、正社員として働くのが安定していると言われていた時代だったので、その施設に一生働けぐらいに言われていました。
元々、当該施設はホワイトだったんです。
この施設の厨房が直営の頃に従事していた調理員の多くは、バブル時代に就職しました。
とは言うものの、介護保険法が導入される前の福祉施設は、国からの収入がウハウハの状態であり、介護職員の給料もかなり良かったのです。
そして、当時の厨房スタッフは正社員で雇うことが主流となっていたので、厨房スタッフもそれなりに給料がもらえていました。
社内旅行はありましたが、国内、海外とも一流ホテルに泊まり、大名旅行と言われる位に豪華な旅行プランだったそう…
スタッフは有給休暇を使って1週間の休みをもらい、旅行に行っていた…なんてことも珍しくありませんでした。
かく言う私は90年代の新米職員(就職先は違う場所)でしたが、当時は旅行に行くため有給休暇を取ることをやっていた人が結構多かった時代でしたよ。
介護保険導入前であることと、初代施設長の考えもあり、当時のこの特養は働きやすかったんです。
しかし、初代施設長は体調を崩し、就業が難しくなってきた中、世代交代が始まりました。
当該施設ではその後、施設長が何度も変わっているので、この辺については割愛しますが、初代施設長が引退後、この施設をお局が牛耳っていたのです。
介護職員は毎日1時間のサービス残業が当たり前。
お局が気に入らない部署に対しては、「有給休暇を使うのはおかしい」と問題定義をし、有給取れない、サービス残業といったブラックな体質が確立されたのです。
ハイ!「残業=おめーの手の負け」だってよ!
因みにこの施設では、深夜過ぎまで勤務していた日もあったけど、残業申請はしませんでしたからね。
こんな状況で働いていたので、当然心の葛藤がありました。
もっと和気藹々としたところで働きたいけど、辞めると収入がなくなるし、勤務しながらの就職活動は何かと不利になりやすい。
施設では何度か人事異動がありましたが、嫌なスタッフが退職しようと、人事異動の方向性は良からぬ方向に動いています。
因みにお局と私の関係は劣悪だったので、もし、お局が施設長になった場合、私は懲戒解雇扱いをされて、退職金の支給がなくなるかもしれない…
そんな危機感がよぎってきました。
この時点で厚生年金を15年以上払っていることが確定し、近いうちにここを去ろうと決心したのです。
それと同時に、主任という立場も捨てて…
潔く辞めたものの…
そう思った矢先、ターニングポイントとなる出来事が発生します。
1つは施設の近くに新規の事業所が立ち上がる。
2つは私が体調を崩したこと。
この施設で最後の年の冬に、私は体調を崩し、1週間休みを頂きました。
それは医師の指示によってのもの。
休みの間は収入があるので、経済的な不安は大きくありません。
だからこそ、冷静になれて、自分の本心に向き合えたのです。
新規事業所の話は、その月の頭頃に耳にしていたので、12月半ばのボーナスが過ぎてから行動に移しました。
面接を受け「是非、来てください!」と歓迎されました。
…が、ここでは社員ではなく、アルバイトとして雇われたので、収入が少なく、生活面への不安が大きくよぎりました。
他のアルバイトと兼務となると、却って社員で働くより大変なことに…
新規事業所が立ち上がりますが、利用者はいない状況であり、仕事は遠慮なく休んでくださいとのムード。
そんな最中、やはり正社員として働かなければ生活が無理だと、必死に就職先を探しました。
そんな最中、大震災が起こり、ガソリン供給不足の問題が発生します。
お金はない…
ガソリンを節約しなければならない…
近場では中々見つからず、場所に固執せずに就職先を探したところ…
ある病院で管理栄養士の応募があったのです!
直観的な動きから展開された現実と真実
その募集に携帯サイト(当時はガラケー)から応募すると、病院の事務長から電話がかかり、翌日面接の約束をします。
そして、面接当日の夕方に採用の電話がありました。
だったら、この病院、ブラック企業じゃね?と思われる昨今ですが、実は、全くそんなことないんです。
採用に伴い、引っ越しすることが確定になり、採用の連絡を受けた翌日に不動産屋に出かけ、新しい物件を探しました。
当時借りていたアパートの利用を終了する話を突然切り出したものだから、不動産屋に怒られましたけど、こればかりはどうしようもないこと。
当時は至るところでガソリンスタンドが閉まっていたので、転居先の不動産屋さんとは郵送でのやり取りをしていました。
それでもって、この私の衝撃的な行動を知った母は、ショックを受けていましたよ。
一生働いてもらいたい特養を辞めた挙句、私の引っ越しにより物理的な距離が離れてしまうことに…
しかし、この野生本能的な行動は、ベターな結果にコミットしたのです。
当時、母は末期がんであり、余命3ヶ月の宣告を受けていました。
地元の病院では受け入れがなく(…というか母が主治医とトラブルを起こしただけなんだけどw)そんな矢先、私が病院に就職したことで、受け入れ先の病院が見つかり、看取ってもらうことにしました。
しかも、この病院は古い病院でありながら、微笑ましい雰囲気があり、人柄が良く、大らかな人間が揃っていることから、安堵に包まれた雰囲気がありました。
この病院に就職した私は、前任者と一緒にスタッフと挨拶を交わしたり、一人で病棟を巡回している時も笑顔で「よろしくお願いします」と挨拶を交わしていました。
患者様がトイレに行きたいことを介護職員や看護師に伝えると「有難うございます」と答えます。
(前の施設で同じことをやると、不貞腐れて「おむつをしているのでそのままにして下さい」と嫌~な態度をとられた)
こんな感じで、新天地での生活が始まったのです。
そして、引っ越し先のアパートの外の風景を見ると、父親の実家に共通するものがありました。
アパートのそばには、父親が命を落とした川が流れています。
(まあ…この数年前位から、電車でこの川を渡っていましたが…)
母は私がこの病院に勤めてから、約1か月後に亡くなりましたが、その10日前に病院に外出の許可を得て、母を私の家に連れてきました。
母と会話を交わす中で…
私がこの病院に就職し、今の現実が作られているのは、父の導きによるものかもしれないと…
川の近くにある病院に私がご縁を得て、余命が短い母が父に呼ばれるために。
この地に私が呼ばれたのも、私が父に呼ばれたからかもしれないと…
(あの世に行くのではなく…)
この病院の和気藹々とした雰囲気は、まるで父方の親族を彷彿させるものがありました。
父方の親族は北海道ということもあり、生まれてから数回程度しか会っていませんが、私を温かく受け入れてくれます。
温和で大らかで快く受け容れてくれる…この病院をとりまく人間関係は、まさに父をとりまく人間関係そのものでした。
ここなら定年まで続けよう…
もう二度と履歴書を書くことがないだろう…
ところが…
10数年の時が経った今、当時の院長も事務長も退職して経営者が変わり、病院の体質が大きく変わってしまいました。
その後、私も退職することになりました。
事実上、この病院は消滅しています。
震災当時、私が起こした行動は、本当にあれで良かったと実感しています。
現在の労働環境は、当時のように働きやすい環境とは言い難いけれど、あの病院が消滅したことは、これからは自分の力で稼ぐようになりなさいとのメッセージなのかもしれません。
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