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偕老の契りを交わした、ひとりの農家

「作ってて言うのも何ですが、やっぱり食べて美味いんですよ!」

平成5年の大冷害の年に、ほぼ全滅していた田んぼから、たった3本だけ生き残った稲穂が東松島市で発見された。その稲穂はササニシキの突然変異で、発見した人には当日雲の切れ間から光が田んぼに差し込み、輝いて見えた事から、その稲には“天より授かりしお米“「かぐや姫」と命名された。
一時は旧矢本町の特産米になるなど、華やかなスタートを切ったにも関わらず、現在では市内を含め宮城県内でもたった一人の生産者となった農家木村正明(38)さん。「なんでみんな作らなくって、今も一人で作り続けているの?」という問いに、冒頭の答えと、その言葉を発した時の表情が、とても印象的だった。

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野山を巡った少年時代

木村さんの自宅は東松島市大塩地区にある。海から直線距離で約5キロも離れた山あいにも関わらず“塩”の文字がつくこの大塩地区は、窪地が散見された旧大窪村と、市内を流れる定川の支流が当時は川深深く、大潮の時には海水が遡って流れ込む旧塩入村が、明治29年に合併をした村である。

木村家は旧大窪村にあり、名の通り山間部の窪地で、代々受け継いだ田んぼも”沢田”と呼ばれ日照時間が短く、お米の量も効率的に収穫が出来ない程だった。その為家業はたばこもやり、牛や鳥を飼う生活をし、不便に思った事はなかったが食べて行くのがやっとでもあった。

子供の頃の記憶を辿ると、家は茅葺き屋根、6歳頃までは土間もあり、母屋の隣には味噌小屋、野菜は畑、また鶏や牛を飼ったりもしていたので、食べ残しは家畜のエサや飼料にと、自給自足に近い暮らしをしていたと振り返る。山と窪地に囲まれたここでは、子供の遊びは山登りに、探検、防空壕探検など自然が遊び場。もちろん小遣いなんてなく、木の実を採ってはおやつ替わりに。時に自動販売機の下を覗き込み、当時200円だったガチャガチャが夢のまた夢だったのを今でも覚えている。

お手伝いがきっかけで見えた道筋

物心がついた時から家業の手伝いをしていた30年前頃から、先代から受け継いだ田んぼだけでなく、母親の妹の嫁ぎ先である市内の宮戸島の田んぼの“担い手”として作業受託を始めるようになった。宮戸島は、奥松島とも呼ばれ、風光明媚な景観や自然豊かな島として東松島市の観光名所である。また四方を海に囲まれている事から、海苔や牡蠣の養殖業、定置網や潜り漁、春には潮干狩りなど海の幸に恵まれてもいた。そのため専業農家を営んでいる家はなく、田んぼの収穫時期と漁業の時期が重なったり、田植えの時期は観光客が増えて民宿仕事が忙しく、田んぼには人手が不足していた。

そんな地域で、親戚の田んぼ作業を請け負う木村家は、徐々に認知され始めるようになる。委託する側としては、安心して繁忙期は他の作業に集中が出来る事はもちろん、たんぼを持っていても手が回らない理由で放置しておくより、木村家に託して収量を上げ、幾ばくかの収入にした方がよいという判断である。また、木村家の人柄や丁寧な仕事振りは宮戸島の人々の安心と信頼を生み、田植えや稲刈りだけなど、細かい作業受託を含めれば、多い時には宮戸島全体で50haの田んぼのうち、半分以上の27haの田んぼを、木村家で担うまでになっていた。

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「八方ふさがりです」で決めた歩む道

30年前から続いた宮戸島での作業受託は現金収入という事もあり、木村家にとっては大きな収入源として確立され、専業農家としても安定を感じていた。2010年の収穫も無事に終え、2011年度の米の準備を進めていた2011年3月11日に、東日本大震災が発生した。海を四方に囲まれていた風光明媚な宮戸島は、甚大な被害を被ってしまった。幸い親類縁者など人的被害はなかったものの、子供の頃から通っていたあの宮戸島は様変わりしてしまった。何より、当時35歳で働き盛りの木村さんが担っていた、宮戸島の田んぼは全滅した。

内陸部の大塩にある木村家は、築数百年の実家も含め、震災による直接的な被害は、市内の状況に比べればほとんどなかった。しかし、当時の仕事の基盤となっていた宮戸島が全滅した事もあり、震災で9割の収入が途絶えた。その窮状に、幸いにも動ける状況であったため、震災直後からあらゆる支援策や、補助金の相談に市の農林水産課から、県の当時の復旧センターなど相談出来る所はとにかく足を使ってかけずり回った。しかし、直接被害のあった田んぼや農家への支援や補償はあるものの、委託された田んぼの担い手であった”作業受託”に対する補償や、支援メニューはどこを探しても見当たらなかった。実質作業に従事していたのは木村家だが、田んぼの所有者であり作業を依頼していた方への農地の補償はあっても、作業していた人への補償はなく、最終的には農水省の県復旧センターの担当者と掛け合った末の答えは、「八方ふさがりです。」

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竹取倶楽部発足、華々しいデビュー

かぐや姫の発見者は、東松島市矢本町の小野寺諭(87)さんだ。きっかけは、小野寺さんのササニシキの田んぼでも、冷害の影響で籾殻の中に身が入らず行灯のように籾殻が透けた状態の田んぼになったのだが、その状態でも1反から2〜3俵は米がとれたため、その日も田んぼには出掛けていたのだった。ちなみに行灯のように透けた籾殻を持つ穂を“行灯穂(あんどんぽ)”と呼ぶそうだ。そんな“行灯穂”だらけの田んぼに、しっかりと身が入り頭を垂れていた3本の稲穂は、大冷害の影響で全滅しかけた田んぼに光が差し込み、見つけろよと言わんばかりのまさに「天より授かりしお米」として、小野寺さんには光り輝いて見えたそうだ。その貴重な3本の稲穂は、全て種籾として大事に保管・管理され、その翌年、翌々年と延べ5年もの歳月をかけ、種籾として十分な量を確保する事までに至った。その間、保有する田んぼで稲を育てるのではなく、他品種の花粉と混ざらぬよう、自宅の敷地で大事に育てたあげたほどである。

そして平成5年の発見から6年後、平成11年に「かぐや姫」は品種登録され、翌平成12年度には「竹取倶楽部」を発足。作付け農家は6軒でスタートを切り、父政行さんも初期メンバーの一人だ。竹取倶楽部の出だしは順風満帆であった。当時は旧矢本町の特産米として認定され、市場では高値がつき、一時は同じく旧矢本町の特産品である海苔とコラボしたおにぎりがコンビニでも発売されたほどだ。肝心の味は、政行さんだけでなく母のてい子さんも「味はうまかった」と言う。年に一度の大塩地区の祭りで、地元農家5〜6軒が作ったお米を、お祭り来場者に目隠しでお米を食べさせる企画では、堂々の人気1位にも選ばれた。日頃お米がすぐそばにあり、舌の肥えた地元の人達からの評価である。

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かぐや姫のおかれた現実

とはいえ、最盛期には13軒まで増えたかぐや姫の作り手も、震災直前には3軒にまで減少をしていた。
理由は、かぐや姫は積算温度が他のお米に比べて高い極晩生品種である事。だからこそ、平成5年に発見されるのだが、他品種に比べて種まきや田植えの時期は変わらないのだが、積算温度が高い分稲刈りの時期が約1ヶ月遅れる。稲刈りが遅れると言う事は、多品種の稲刈りを終えた後、ひと月後にまた同じ作業を行うという事で作業効率が悪い。また、本来ササニシキは稲の背丈が高く風の強い宮城県では倒伏しやすい課題があり、大冷害を機に、ほとんどの農家が背丈も低く倒伏せず、1反当たりの収量も高い品種改良されたひとめぼれに移行していた背景もあった。ちなみに3軒のうち1件は、発見者の小野寺さん、もう一件は市内の農家さん。そして、木村家だ。木村家の場合、宮戸島の作業受託をしていた米の作業がちょうど終わる頃にかぐや姫の収穫時期が来るため、作業効率がとても良いので継続をしていた。

震災直前、農協に竹取倶楽部(3件)でかぐや姫を約700袋出荷していたが、実態は、かぐや姫の実売は15袋程度しか売れていなかった。700袋出して、わずか15袋。そもそも県内の新米時期から1ヶ月遅れで市場に出て、付加価値をつけた分市場価格からしても多少高い値段設定をした事も要因の一つだ。農協では、概算金と言われるその年の流通上の最低価格で出荷分を買い上げ、その後その品種としての販売数に応じて差額が生産者に支払われる仕組みだ。売れていない残りの685袋はどうなるか?「品種なし」として流通され、概算金の価格で取引がされる。こうしたお米が動くのは質ではなく、量だ。

残された最後の竹取の翁

役所で「八方ふさがりです」と宣告を受けた際、木村さんはどこか吹っ切れたと言う。自分自身は農家が好きだし、何より性に合っていた。けれど、それ以上に自分が食べて美味しいと思って作った作物を、安い価格で取引されていた現実、どれだけ訴えても手が差し伸べられなかった状況など、様々な世の中の不条理に対して、この「かぐや姫」で見返してやろう!と決めた。
とは言え、家族の特に両親からは反対された。震災以前から、父政行さんはお米主体ではやって行けないのが分かっていた。両親からは「お前は米を辞めて、サラリーマンをやれ。」と。しかし、もがき苦しんだ末に、敢えていばらの道を選んだダンナに対して正直不安を抱えていた妻絵美さんは、「娘が産まれてすぐで、心配でしょうがなかったけれど、なんとかなると思った。いつか花が咲くでしょう。咲かせてみせろと。」
震災から1年半後、収穫したかぐや姫は農協へは出さず、かぐや姫を「きむら米」として全量自家販売する腹を決めた。

いま現状は、震災前の30%くらいまで手応えを感じるようになって来たと言う。農協では15袋しか売れなかった米も、営業の仕方がわからないながらも、30袋にまで売上は伸びてきた。もともと根拠のない自信や、米作りに対するこだわりもあったので、やっとかぐや姫が認められて来たのかなぁと、素直に喜べる。なにより直接的に食べて美味しいと言ってもらえる事が嬉しいので、今後も努力は続けていく。とはいえ、作ったかぐや姫全てが売れたとしても、事業としては成り立たないのが現実で、嬉しい!とただぬか喜びは出来ない複雑な状況だ。

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木村さんが思い描く「宮戸島」

自分が子供の頃、不思議と海が好きだった。山あいの村で生まれたから、無い物ねだりかもしれない。父の手伝いで宮戸島に付いていくと田んぼの真横はすぐ海で、田植えをしていれば、ウミネコが頭上を飛び回り、機械を止めれば波の音が聞こえる。

その大好きな宮戸島が震災で、様変わりしてしまった。恩返しではないけれど、何かしたいと宮戸島のコトを考えていたら、ある考えがビビビ!と閃いた!!”ワイナリーだっ!!!”この島なら、水もいらないし、土地に合っていて、観光地でもある宮戸島にピッタリだ!
妻と一緒に地元の人を巻き込んで、採れたブドウでワインを創り、豊富な魚介と一緒に味わえる海が見えるレストランを作り、宮戸島をまた元気にしたい。すでにワインの名前も決まっている。名前は「浜の涙」。嬉し涙、悔し涙、全てを包括した名前だ。

ワイン用語で「テロワール」という言葉がある。フランス語の土地から派生したテロワールは、方言のように“その土地ならでは”を指し、日本語では「地域性」「風土」という言葉が近いそうだ。これからの宮戸島で木村さんがやりたいのはワインを作りたいのでも、レストランを作りたいのでもなく、“その土地ならでは”の宮戸島を思い描いています。

現実的には、木村さんはこれまで培った作業受託の仕組みを軸に、集落営農の促進や、新たな担い手の育成にも興味を持ってもいる。ちなみに今年のかぐや姫の作付け面積は、2.7ha、11tが目標だ。11tといえば、367袋。まだまだ木村さんがやる事は、とてつもなく多い。

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文/写真:太田将司 2014.11

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