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若き海苔屋が描く、浜の未来図

「一番こだわっているのは、
        やっぱり味っすよ。」

2015年1月6日。「第六十七回宮城県奉乾海苔品評会」の審査会が、塩竈神社にて朝から行われた。この日の審査会には、たまたま海が時化て作業が休みになり、見学に来た海苔漁師津田大(ひろし/28)が僕の隣にはいた。審査会に立ち会い、審査結果を待つ間「品評会では、海苔の色やツヤや香りで判断をしているけれど、作り手として一番こだわったのはどれ?」と聞いてみた。その答えが冒頭のあの言葉。自ら丹精込めて作り、選びに選んだ海苔が、立ち会った審査会で優勝には選ばれていない事が作った本人だからこそ分かっていながら、躊躇なく“味にこだわった”と言い切った。頑固なのか?それとも負けず嫌いなのか?今号は、この不器用な海苔漁師が主役の物語です。

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夢は「海苔屋になる」

宮城県東松島市大曲浜とは通称で、現在は東松島市大曲地区となる。元の大曲村は、「往古は玉造川落合湊口に御座候所、右川筋隣村北赤井村境迄五カ所曲がりあり」と、北赤井から河口まで5カ所の曲がりがあったので、大曲と名付けられた。ちなみに、玉造川は江合川のこと(元和2年に定川に河川改修)を指す。ここ大曲浜は古くからの漁村で、海苔養殖は昭和28年からと記録されている。家の大小はあれども住宅は密集しており、道路は狭く入り組んでいて、“浜の人”以外が車で来るとすぐ道に迷い、小さな部落ながら抜け出すのに苦労をした程。幼少期の大さんとっては、この大曲浜は、浜の人だけで構成された小さな世界。浜での遊びと言えば、岸壁での釣りであり、大好きだったおじいさんがよく連れて行ってくれていた。身近な海には、魚やカニなど生き物がたくさんいて、海で魚の釣り方や生き物の獲り方を教えてくれるおじいさんが大さんは、海と同様大好きだった。だから幼稚園の卒園式で披露した将来の夢は、大好きな海とおじいさんがやっていた「海苔屋」だった。

「お前が継ぐのかよ?」

大さんは男だらけの4兄弟の3番目。兄に比べれば自由気ままなのだが、弟に比べるとそれほど容量がよくない。いわゆる不器用だ。3世代あわせて10人家族であった頃が「個性をアピールするのが大変で、本当に嫌だった。」と今でも振り返る。ちなみに、日頃あまり自分からは口を開かないくせに、たまに褒めるとニヤリとするあたり、僕から見れば十分に個性的である。そんな大家族で育った大さんが中学2年生の時、長男が家の家業である海苔屋を継いだ。「お前が継ぐのかよ?」上の兄たちが、海に興味がなさそうだったこと、兄が海苔屋を継がない考えでいたのも知っていたから、自然と自分が継ぐものと思っていた。だからこの言葉だったのだが、残念ながら幼稚園からの夢はここで途切れてしまう。それでも高校進学の際、既に仕事を継いでいた兄に「俺が海苔屋を継ぐんじゃなかったのか?」と聞くあたり、なんとも諦めは悪い。

海苔は「運草」と呼ばれた

津田家はこれまで代替わりが早く、大さんで海の仕事としては4代目。曽祖父が18歳の時「志ヲ海ニ向ケテ」と墓石に記載してある通りそこから海の歴史が始まった。津田家の墓石の裏に「津田家先考墓誌」として刻まれているのだ。昭和28年から始まる大曲浜の海苔養殖だが、父千家穂(ちかお/55)さんは昔をこう振り返る。「むかし海苔は養殖でなく、ここ(大曲)から半島(牡鹿半島)まで行って、手で海苔を摘んで来て、それを売っていたんだ。当時は貴重で、背負いカゴ一つ分も海苔を作れば、すごい金額になったものだ。」その後祖父の代の人たちは、わざわざ半島まで行かずとも近くで海苔が採れるようにと、大曲の砂浜に網を設置し、天然の海苔を付着させる事を始めたと言う。当然、経験も知識もないので年によっては、たくさん採れたり全く採れなかったり。そのため、当時海苔は自然の産物として「運草(うんくさ)」とも呼ばれていた。

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一気に飛躍する海苔生産

海苔養殖の祖を辿ると、1949年イギリスの海藻学者キャサリン・メアリー・ドリューが海苔の一生を発見したことが大きな転機となっている。その発見により、人工的に海苔の種付けができるようになり、生産量が大幅に拡大される。運任せではなくなったのだ。それ以降、様々な養殖技術、海苔を製造する機械など現在も進歩を続けている。その技術革新は当然大曲浜にも訪れ、それまで手で海苔漉きをしていた家に半自動の乾燥機が登場したり、現在の養殖でも行われる陸上採苗や、海上での海苔の活性技術など、全てがこの30年くらいの間に訪れた。とは言え、当時は技術や道具があっても経験と知識が追いつかず、海苔だけで食べていくのは当然無理。夏場は知り合いの船に乗って稼ぎ人として収入を得るなど、苦労はしばらく続いたと言う。そんな時、祖父である政勝さんが全自動の海苔乾燥機を、自宅に導入した。

「もう他の仕事はしたくない」

「機械を買ったから、あとは任せる」と言われた千家穂さんは当時21歳。それまでは家計を支えるために、海苔が終われば夏場は魚獲りで収入を得たり、妻には看護師の仕事を続けさせていたりと、海苔以外の仕事もしていた。しかし海苔の機械を預けられるということは、実質の世代交代である。「なんぼ失敗しても、今の代表はオヤジだ。自分に借金が来るワケではない」と考え、妻とふたり、海苔一本で生活出来るための猛勉強を始める。根底にあったのは「もう海苔以外はやりたくない」そんな想いだと言う。そして乾燥庫を任されて7年後の「第39回奉献乾海苔品評会」において、千家穂さんが作る海苔が優勝を獲得し、その海苔は皇室へ献上された。津田家にも、ここ大曲浜にとっても初めての栄誉である。そんな年、津田大が産まれている。

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あっけなく終えた目標

継ぐことが叶わなかった海苔屋への道。それでも海と生き物が大好な大さんは、一転水族館の飼育員への道を目指す。地元の水産高校へ進み、魚の餌やりから地引網、魚の生態を調べるなど、自分にとっては勉強とは思えないほど、のめり込んだ。高校卒業も控える頃、高校の先生に「飼育員を目指すには大学へ行きなさい」と勧められる。勧め通りに石巻専修大学理工学部生物生産工学科に無事入学を果たしたのも束の間、大学の先生から「ウチの大学からは、飼育員にはなれないよ。」あっけなく水族館の飼育員になるという夢は、入学早々打ち砕かれた。しかし「生物と戯れる仕事はこれだけじゃない!よしっ、海の仕事を探そう!」高校3年間「飼育員になる」と想い続ける継続性があるのに、この切り替えの早さである。ちなみに、あれだけ継ぎたかった海苔屋の仕事も、夏場の陸上採苗時のアルバイトや、頼まれた時だけ手伝いをした程度。情熱的なのか、淡白なのか、なんとも不器用な男である。

願いは届いた海苔屋への道

大学卒業を控え、選んだ海の仕事は熊本県天草にあるマグロと鯛の養殖会社。1年中海に行って、鯛の水揚げに携わるいわゆる漁師の仕事。しかし現実は、辛くてしかたがなかったと言う。新入社員がその年次は自分一人で仲間もいない、体力的にも九州特有の暑さに慣れない、先輩の聴きなれない方言に何で怒られているかも分からないなど、全てが辛かった。何しろ記念すべき初日には船に穴を開け「船の運転の才能がない!」とも怒られている。それでも大さんは大学を卒業する2009年3月に結婚をしており、妻のお腹には新たな命も芽生えていたため、何とか仕事を続けていた。そんな中、2009年8月に妻の出産に立ち会うため、宮城へ戻った。「産まれた息子の顔を見たら、もう戻りたくないと思って。社長や上司にペコペコしているなんて、想像していた漁師と違かった。」と振り返る。そして「甘かったんすね。」と今は言う。実は立会いで宮城に帰る時には、自分の気持ちは決まっていた。九州にいた頃から、両親と兄にも「やっぱり海苔屋をやらせてくれ」と頼んでいたのだ。両親には「帰って来るな!もう根をあげたのか?」と言われたが、海苔屋を継いでいた兄は「やりてぇんだったら、やればいい。俺たち兄弟ならスゴい事が出来るんじゃないか?」と言ってくれた。「お前は海苔屋になるような人間だからなぁ。お前が作って、俺が売る。」と。そのまま仕事を辞め、2009年のこの時から海苔屋としての仕事が始まった。しかし、父千家穂さんは「大とは絶対に組みたくなかった」と当時を振り返る。理由は簡単。自分と似ているから。我が息子ながら、考え方ややり方、こだわる部分が全く同じである事、何より“とにかく人に言われて何かをするのが大嫌い“なのだ。やる前に分かっていながらも、若い頃の自分と同じ失敗を度々重ねる。当然アドバイスをしても聞かないので、どうやってもケンカになる。そういう意味では「ウデもいいし、なんでもすぐ覚えるし、販売にも力を入れていた」と父に評される兄の存在は大きく、「兄がいたから海苔屋を継いだ」と大さん本人も言う。

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芽生えてきた、親への想い

最初のシーズン途中に、そんな兄が海苔屋を去ることになった。そのためこれまで以上に父と二人きりの時間が増え、ケンカも増えた。しかし兄が抜けた分、海苔作りの仕事が増えても、一生懸命取り組み、父と仲が悪かろうが「海苔作りっていい仕事なんだなぁ」と、心底思えるようになっていた。初年度は出来栄えや海苔の等級など気にする事はなかったが、充実感を持って終シーズンを終えた。オフシーズンの2010年夏、当時の若手メンバーの研修旅行で九州に行った際、自分だけ1週間居残り、改めて海苔養殖の基礎の基礎を学んだ。「海苔作るのって、こんなにも大変だったんだぁ。」と、その研修で初めて知った。縄が結べる、船が回せる、そんな程度で満足し、自分に海苔養殖は向いていると思っていたのだが、この勉強で初めて”海苔”の奥深さに惹かれた。初日の研修を終えた夜「俺は日本一の漁師になる!」「今やらないでいつやる!」と、ホテルから一歩も出ずに、その日の勉強を復習した。好きなコトにはとことん嵌まる性格に、本気のスイッチが入ったのだ。最初は一人残るのがイヤだったこの研修が、帰る頃には学んだ事を早く実践したく、次のシーズンを待ちわびる程になった。今でこそ海苔養殖の基礎だが、自分にとってはどれもが新しく得た知識。「これ知ってるか?」と偉そうに父に聴き「当たり前だべコノッ!」と言い返されたり。この研修をきっかけに海苔の魅力に気付くと共に、“いい海苔を作っている、ウチってすごいんだなぁ”と、自分なりに親を見る目が変わってきた。そして2011年1月、いつもと変わらぬある日、父から「品評会で優勝獲ったぞ!」と聴かされた。自分の仕事も更に増えて来ていた事もあり「率直に嬉しかった。」と言い、父も一番最初に大さんに報告をしていた。二人目の子供も妻のお腹にいたこともあり「子供が物心着くまでには、早く一人前になりたい。」その想いは、この品評会の優勝でさらに加速をした。そして親孝行ではないが、早く成長して親父を引退させてあげたかった。だからこそ、津田家を継ぐには、人より勉強して、誰よりもやらなくては。
全てが上手く行き出していた。

「浜が終わった」

1月の優勝の報告を受け、いつもの一日を過ごしていた3月11日。この“いつもの”一日が激変した。その日、午前中の網張りを終え、午後はのんびり家族でテレビを見ていたら突然大きな揺れを感じた。「おっ、地震だなぁ」尋常じゃない揺れに、息子と妻を急いでベッドに入れ、揺れが収まるのをひたすら待った。当時住んでいた家はログハウス。「この丸太が落ちてきたら死ぬなぁ。」最初の揺れが収まってすぐ、父から「早く出ろ!逃げるぞ!!」と怒鳴られた。寒いだろうからとジャンパー数枚、それと携帯電話だけを持って、1台の車でいち早く避難した。大さん自身も車で逃げようとしたのだが、鍵を家に忘れてしまった。家に取りに戻る事すらダメだ!と言わる程緊迫した中、家族6人で妻の実家へと避難した。避難する際、内心では前年のチリ津波の際にも津波は来たが、そんな何もかもを置いて逃げる程の大きい津波が来るとは思ってもいなかった。父も同じ考えだったようで、嫁や子供達を預けたら、再び浜に戻って船や乾燥庫の対策に向かうつもりであった。しかし避難している間に、6メートルの津波の情報が入り、乗っていた車のワンセグ映像を見て、そのまま浜に戻る事を諦めた。
次の日、自分が生まれ育った大曲浜を見るまでは、家があると思っていた。妻と二人で浜へ向かう途中、高架線の上から見た海沿いの景色は一変していた。あまりの惨状に、自然と笑うしかなかったと言う。どうしても浜が見たい気持ちで、とりあえず歩けるトコまで歩いてみようと妻と二人で歩いたのだが、道中の悲惨な光景に徐々に青ざめて行った。正直そこからの記憶はないと言う。覚えているのは「浜は終わったな。」

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「ダメだったら、その時考えればいいや!」

震災から2ヶ月が経ち、生活する為にも仕事探しを始めたのだが、どうにも全然やる気が出なかったのを覚えている。そんな時、当時の記憶が曖昧だが、震災後残った若手漁師の集まりがあった。みんな再開もせずに海苔屋を辞めると思ったし、大さんも「他の仕事を探す」と皆に言おうと思っていた。集まりでは、当時研究会副会長の相澤太さん(当時33)が皆との話し合いの場で、はっきりと「俺は浜を復活させる」と言い切った。他の先輩も、事前に無理だろうと相談していた幼馴染みも「再開する」と、その意見に乗った。マジかよ?どう考えてもムリだろ?お金の部分もそうだが、何よりあの日高架線から見た光景に、完全に心を折られていた。それでも何をする事も、何もする気も起きない自分に「海のガレキ撤去でお金がもらえる」と聞いた話しには参加しようと思っていた。それに「浜を復活させる!」と聞いて、ほんの少し「ホントに海苔がまた出来るのかな?」と期待を持ったのだ。しかし、現実寝ている子供の顔を見たら「う〜ん?」となる。失敗したら、この子はどうなるだろう?復活を目指すにしても、一体いつ復活するんだ?現実的に別の仕事をした方が良いのでは?でも、今やらなかったら、この先何十年後悔するだろう?その時「俺はずっと漁師になりたかった。でも津波が来てやめたんだ」と言っている自分の姿が見えた。そんな人間になりたくない。あの日同じ光景を一緒に見た妻の妙子(29)さんは、海の仕事に反対だった。「まだ震災直後の話だったので、海への恐怖心が強かった事が一番大きな理由でした。もしまたこんな事があったら…、と不安で。当時1歳半の長男、お腹にいる長女をどうやって育て、どうやって生活をしていくのか?当時24歳だったヒロには、今なら仕事を変えても十分可能性があるんじゃないか?」と思った。それでも「海に戻っていいか?」と聞いてきた大さんの質問に、すぐに返事が出来なかったと言う。「でも、たくさん悩んで出した海に戻りたいという答え。そこには、代々続く海苔屋をここで終わらせたくないという気持ち、大曲浜という自分が育ってきた地元が消えてしまった今だからこそ、海苔を復活させたいという気持ちがあったんじゃないかと。そして、なによりヒロは今でも海が大好きなんだなぁと。そう思った時、ヒロの答えに反対なんて出来ない。家族を想ってたくさん悩んでくれただけで十分だなと思いました。後悔しないように、やりたいようにやって、それでダメだったらその時考えればいいや!」と。
震災前、従業員として一緒に仕事をしていた年配の方からもこう言われた。「ヒロちゃん頑張ってるなぁ。でも、お前たち若いヤツらが浜を復活させないで、誰が復活させんだ!頑張れよ!」と。そりゃそうだ!誰がやる?自分達しかいない。ガレキ撤去をしながらも半信半疑であった「浜を復活させる」という想いには、後には引けない理由が出来た。

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変化する海苔作り

とは言え目の前に広がるガレキの山を前に、海苔が出来る未来を思い描くのは当時24歳の若者には酷だった。この先乾燥庫建てて、船を買って。一体いつになることやら?とにかく、目の前の仕事をガムシャラに働いた。そういった意味では、働いている時が一番楽だったかもしれない。その後、若手メンバーが中心となってワカメ漁に挑戦したり、徐々に海での仕事が増え、そしてあの日からちょうど1年8ヶ月が経った、2012年11月11日に復活の海苔摘みが始まった。「どうやってやんだっけなぁ?」これがこの日の大さんの心境だ。また、久しぶりに出来た海苔にこれまでの感情が溢れて感動するのかと思いきや、初めて使う新しい機械に慣れておらず、仕上がりの劣悪な海苔が出てきた。「やばい!これは怒られる。」この時から父に「乾燥庫を任せる」と言われていた事もあり、感動なんてしていられなかった。どうにか復活の初年度を終え、やっと「これで家族を食べさせる事が出来る。」そう思った。
しかし、2年目。毎日どうしたらいい海苔ができるか?とにかく自分の理想だけを追い求め、それがストレスになり、先輩にも食ってかかるようになり、全てが空回りしだしたのだ。そんな時、震災前のお客さんから「津田家の海苔しか食べたくないから、早く復活してくれ」という言葉を聞いた。震災後も、本当にたくさんの人が浜にやって来て、多くの人が目の前で食べた海苔を美味しいと言ってくれた。その現実に、純粋に「美味しいと言われる海苔作りをしたい」そう思うようになったのだ。振り返ると、これまで作ってきた海苔を毎日食べていなかった事に気付く。海苔の乾燥庫はとても繊細で、その日の海苔の状態、温度、湿度などを加味し複合的な調整を毎日行う。「これまで日々やって来た調整は、一体何を調整していたんだろう?」その日から、今も大さんは毎日その日作った海苔を食べて覚え、全てを経験にしている。

ようやく描く浜の未来図

大さんは、自分の海苔を中心に一つの輪を作りたいと思っている。そんな自分の海苔を楽しみにしてくれる輪が出来れば、生産者として幸せな事だなぁ、と。毎年お客さんから言われる「今年はまだ?」それが励みになると。そして「浜を復活させる」という責任においても、今まで誰もやらない事をやれる浜でありたいと願っている。「大曲浜には、面白い海苔屋がいるぞ!」そのため学校に出向いて海苔の授業を提案したり、業種が違う生産者とも積極的に付き合ったりもする。そんな今の活動を千家穂さんも「自分が継いだ時と一緒で、今失敗しても大のトコには負担がないようにしてある。だから、今のうちに色々やっておいて欲しい。このままやっていけばいい。」当の大さんも、今季から本業の海苔養殖に一段と身が入る。今年2015年の奉献乾海苔品評会に提出した海苔は、津田大の名前で出品された。今年から正式に大さんが津田家の名を継いだのだ。津田家のモットーを千家穂さんはこう語る。「ちゃんと、美味しいものを作る事。美味しいと言われるのが何よりも一番嬉しい。」今回の品評会での結果は三等賞であったのだが、冒頭に書いた通り審査基準が「色・艶・香」と見た目重視なのに対して、「味にこだわった」と言い切った津田大さん。似た者同士、津田家の海苔は、確実に息子が受け継いでいた。

最後に、取材中「海苔屋」という言葉をよく使った。「海苔漁師」ではなく、地元では海苔養殖をしている家を「海苔屋」と呼ぶ。たしかに考えてみれば、海苔養殖はとても一人では出来ない。家族や周りのサポートがあって出来るものだ。今回の取材で特集したのは津田大という個人だが、知れば知る程たくさんの人が周りに登場する。とてもじゃないが、書き切れない。そして、その誰もが今の大を作っている。だから僕もこれから大を紹介する時はこう言おう。
「ウチの自慢の海苔屋、津田大です!」と。

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文/写真:太田将司 2015.02

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