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牡蠣でつながる

「牡蠣をやっていれば、
       負ける気がしないっすね。」

2012年5月に初めて会った彼の印象は、先端はギザギザに尖り、表面はゴツゴツとした硬い殻を身にまとっているように見え、あの時彼が手にしていた牡蠣と重なって見えた。短い会話の終わりに「これ食べてみて下さい」とその牡蠣を渡された。帰宅し食べてみると、その硬い殻の中からは真っ白で、とても甘くて優しい味をした身が出てきた。彼の尖った印象から一転、初めて牡蠣が美味しいと、驚き感動したのを鮮明に思い出す。
彼とは、東松島市東名(とうな)の牡蠣漁師阿部晃也(32)さん。豪快なのに繊細、大口を叩くくせに極度のあがり症、一人でいるのが大嫌いなくせに人見知り。その面構えから一見取っ付きにくい雰囲気だが「牡蠣が名刺」と食べてもらってから想いを語る彼に、牡蠣の味以上に彼自身の魅力に引き込まれる。
3年前と同じ5月。春号は奇しくも彼との思い出から始まる物語です。

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東名(とうな)が作った少年時代

鳴瀬町誌によれば、「東名」は古くは「東那」、まれに「闘灘」と書かれたこともあると伝えられている。安永7年(1778)奈和良元直が仙台藩の命で東齊浜(現在の東名)に塩田を開拓した頃を契機に集落が形成されたと考えられており、東名には塩田開拓の功績を讃えた「東齊塩場碑」(東松島市指定文化財)も建立されている。
宮城県での牡蠣養殖は江戸時代初頭にさかのぼる。漁師庄右衛門が現在の塩竃市に位置する浦戸村野々島に牡蠣が生息しているのを発見、これを採取するとともに、稚貝を拾い集め海面に撒いたのがきっかけと言われている。大正12年頃、米国で種牡蠣養殖の研究をしていた月本二朗氏が東名で種牡蠣養殖の実験をした結果が良好だった事で東名に一大養殖場が広がり、昭和10年頃には年間1万箱以上を米国に輸出していた。太平洋戦争勃発とともに輸出が途絶え衰退してゆくが、戦後再びアメリカへの輸出を中心に生産量が増加すると、剥き牡蠣はもちろん、種牡蠣の成果もよく、再びドル獲得の中心となっていた。

そんな歴史を持つ東名の中の元場(もとば)と呼ばれる海側の集落は、たいていの家が漁師の家庭。漁師の家は両親共々忙しく働くのでまず家にはいないため、晃也さんも家の裏山でよく姉と遊んでいたのを覚えている。家にいても大人にかまってもらえない近所の子どもたちは、遊び相手を求めて自然と集る。そこには兄弟もいれば、世代も違う仲間が集まり、当時の記憶でも「10コ上までは一緒に遊んでいた」と言い、世代を超えた子供達が集まれば、当然悪いことを覚える。その反面、絶対にやってはいけない事も自然と覚えていった。遊びはたいてい空き地や神社に集まり、野球、缶けり、焚き火、洞窟探検など。常に勝ち負けにこだわる漁師の子どもたちは、遊びにも真剣で「缶蹴りをやれば俺たち宮城県内で随一だった」と今でも胸を張る。缶蹴りに上手い下手はあったのか?こうして二人で話していても、負けず嫌いが顔を出すから、なんとも可笑しい。

晃也少年の遊び場は、季節によっても変わる。春は東名港の裏手で母親が潮干狩りの管理をしながら営業していた食堂で、お客さんや集まる漁師たちに遊んでもらった。夏は父親が野蒜海岸で営業していた海の家で、海水浴客たちと遊ぶ。秋から冬は牡蠣のシーズンとなるため、東名の牡蠣の加工場が遊び場。親の加工場では邪魔扱いされるので、もっぱら遊ぶのは隣の加工場。
季節毎に遊ぶ場所や遊ぶ相手が変わり、近所ではたくさんの子供たちと遊んでいた晃也さんは「とにかく人がいっぱいいるのが好きだった」だと振り返る。

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優しい母に、スパルタ親父

ここまで一切遊び相手として登場しない両親だが、子ども達を放ったらかしにしていた訳ではない。母・量子さんは、まだ小さかった晃也さんを背負って食堂の営業をしていたが、ラーメンの注文が入るたびに背中の晃也さんは毎回食べたがった。その都度晃也さんを降ろす訳にもいかず、背負った状態で茹でた麺を何度も背中越しに食べさせていたと言う。繰り返し、熱々の麺がかかる量子さんの首筋には、今でもその火傷の跡が残っている。なんとも優しいエピソードだ。
一方、父・達也さんはスパルタだ。夏場も海上での作業がある牡蠣漁師の親父は、昼頃に晃也さんを船で近くの岩場に連れて行き、そのまま置き去りにする。残された子供は、たまったものではない。しかも連れて行かれる岩場は毎回違い、もちろん泳いで帰れる距離でもない。夕方作業を終えた親父が迎えに来るまで、自分で遊びを見つけなければいけない。遊びながらも、潜水して海底の地形がどうなっているのか?どこに、どういった生き物がいるのか?潮の満ち引きでどう海の様子が変化するのか?その好奇心が、知らず知らずに得た貴重な知識になった。この知識は広大な漁場を管理する現在も、多少震災の影響で海の状況や環境に変化はあったものの、大きく役立っていると言う。
ちなみに、親父が迎えに来ても安心は出来ない。阿部家の試験として、岸壁に着いた船の左舷側から右舷側へ素潜りで渡らないと、岸壁には上がれないのだ。これ実は、大人でも結構な気合いと覚悟がいる。興味が湧き、その潜水では何を学ぶの?と尋ねると、即答で「わかんないっす!」と返事が来た。

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なにも見出せなかった思春期

晃也さんは、兄と姉がいる3人兄弟の末っ子。子供の頃から父親の跡を継いで、牡蠣屋になる!という明確な意思は持っていなかった。牡蠣の仕事を手伝える中・高生の時期も、自分から率先して仕事を手伝う事はなく、小遣い稼ぎとして遊び仲間に声をかけ忙しい時期に手伝っていた程度。当然初めてアルバイトをした後は「大変な仕事だ」と思ったものの、職業として牡蠣漁師を意識した事も、目指そうとした事もなかった。
ちなみに4歳上の長男も牡蠣屋を継ぐ意思はなかったが、単純に頼まれると断れない性格が災いして、主に兄が親父に言われるがまま牡蠣の仕事を手伝っていた。

明確な将来の目標を持たずとも、人生平等に卒業の時期は訪れる。高校を卒業した後、最初に就いた職業は兄の紹介で入ったラーメン屋。この時点でなんともやる気がないので、案の定ラーメン屋はすぐに辞めてしまう。次は先輩に誘われて建設業へ。目当てはお金で、この時もなにか考えがあって仕事をしていた訳ではない。1年ほど経ったある日、小さな転機が訪れる。福島県の相馬港でプレハブ建ての仕事をしていた時、ふと現場近くの海を見た。相馬港で見た海は、自分が小さい頃から遊んでいた“あの海”とは全く違う別物だった。その瞬間、ふとなぜか「地元に帰ろう」と思ったと言う。

履き違えていた感情

地元に帰ると決めたものの、牡蠣漁師として本気で取り組む訳ではなかった。単純に、人に使われるのがイヤで、実家の家業なら多少のわがままや融通が利くと思って帰って来たのだった。今でも当時の考えは甘かったと言う。本当にどうしようもない奴だったと。しかし、当時の彼にはそんな考えは微塵もなく、実家で親父に「明日から一緒に仕事すっから」と宣言をする。子供を半日以上岩場に放置する親父である。当然答えは「ダメだ」。しかし後がない晃也さんは必死に食い下がり、何十回と繰り返された押し問答に勝利し、「じゃあ、明日朝5時な。」という親父の答えをもらう。にもかかわらず仕事の初日、彼は寝坊をする。同じ家に住んでいる親父は、朝起きてこない晃也さんを起こすでもなく、ましてや仕事に来なかった彼を怒る事もなかった。つまり、全く期待をされていなかったのだ。そんなグダラグダラとした生活と関係がなんと1年以上も続くのだから、期待していないとは言え、なんとも理解出来ない親子関係だ。ちなみに阿部家の試験は、そんなやる気のない漁師にも日々課される。自宅には、作業で使う竹が用意されており、日々いろいろな結び方を親父からテストされるのだ。そのテストをクリアしていると、あたかも自分は仕事が出来ると勘違いをしていたと言う。
牡蠣養殖では、漁協の組合員みんなでやる共同作業が少なくない。ある日の共同作業での事だ。いざ作業に取り掛かったら、家では出来ていた簡単なロープ結びが出来ず、お手上げ状態になってしまった。少し複雑になっただけで手が出せなくなり、恥ずかしい思いをした晃也さんは、そこで出来ない事を悔やみ、心を入れ替え努力するのではなく、出来ない事をバカにされる事に腹を立てた。自分が悪いと全然思わず、上手に教えてくれないのが悪いと。結果、素直になれないまま意地を張って仕事と真剣に向き合わず、夜は酒に逃れ、翌日寝坊を繰り返す悪循環に陥った。しかしそれでも当時漁師を辞めなかったのは、やはり「楽だったから」と振り返る。

21歳の時、親父から船の免許を取れと言われ、教習所に行ったのだが、試験中に教官と大げんかをして帰って来てしまう。理由は不真面目ながらも一生懸命覚えたロープの結び方を「やり方が違う」と教官に一喝され、頭に血が登りそのまま帰って来たのだ。この時ばかりは戻った晃也さんも親父に叱られ、少し反省をする。すぐに受け直しに行った晃也さんは、今度は普通に試験に落ちた。結構勉強して臨んだと言うから、なんとも惜しい。ちなみに当時「船舶(せんぱく)」という漢字が読めない程の学力である。その後、親父の必死の特訓と工作により、無事3か月後には船舶免許を取得する。船の免許を取得すると、ようやく仕事に対する姿勢が変化してくる。徐々に親父の仕事をよく観察するようになり、少しでも仕事を覚えようと必死に喰らいついた。実は当時船酔いがひどく、仕事は毎日が地獄だった。それでも親父に馬鹿にされるのが嫌で、見えない影で胃の中のモノを吐き出し、仕事中は何食わぬ表情で仕事を続けた。

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補欠から四番ピッチャーへ  

そんな日々の中、晃也さん24歳の元旦に突然転機が訪れる。2人で水揚げ作業をしていた際、親父がボンブ(巻き上げ機)に手を挟んでしまう。親父の手袋を外すと、血で船底が真っ赤になるほどの大怪我だった。そのまま作業を中止し、親父に代わり船で岸壁へ戻る途中、一気に腹を括る。明日は親父が不在という不安はもちろん、牡蠣の水揚げ作業も1人でやらないといけない。なにより、作業船を操縦する自信も無ければ、漁場への航路、どこの牡蠣をどれだけ揚げてくればいいのか、仕事の段取りの全てを分かっていなかった。しかしここで「出来ない」は許されない。何故なら親父が社長を務める加工場には、30人以上の女工さんが明日も牡蠣を剥くために待っているのだ。「やるしかない!」突然補欠が四番ピッチャーになったようなもの。幸い親父は作業が出来ないものの、翌日も作業場には顔を出し、仕事の指示は出してくれた。それがきっかけとなり、自分だけの事ではなく、全ての仕事に目を向けるようになった。すると晃也さんに緊張感が増し、徐々に酒の量も減ってきた。仕事と真剣に向き合うと、責任感や充実感も生まれてくる。未だに沖から戻り、岸壁から上がった瞬間、緊張から解放されるフワァ〜とした快感があると言う。

自分のスタイルが見え始めた

「自分で育てた牡蠣」という意識が増すと、自然と「人に食べさせたくなった」と言う。一種の自慢からなのだが、本来人が集まるのが大好きな彼は、自分の牡蠣で友人を集めては牡蠣を振舞っていたのだ。食べた後の「美味しい」という言葉が、素直に嬉しかった。すると次第に、集まる友人が友人を呼び「あの人に紹介をしたい」「誰かに売りたい」という声が上がるようになる。「牡蠣が名刺です!」と、食べてもらってから語るスタイルは、この時のスタイルが基礎となっている。しかし当時は喜びだけが先走り、欲しいと言われた友人には好きなだけ牡蠣をあげていた。ある時、これが自分の商売になるのではないかと気付く。自分で遊ぶ金は、自分で稼ごう。早速親父に「給料いらないから、自分で売った分は自分の小遣いにしていいか?」と交渉すると、親父はたいして売れると最初から思っていないので、あっさりとOKをした。
早速ウェブサイトを立ち上げて直売を始めると、一気に売上は上がり、給料をもらったことのない晃也さんは「こんなに売れるのか?」と、びっくりしたそうだ。そうなると、普通の人は営業に力を入れがちだが、彼は違った。ある日「前の日と身の大きさが違うね?」と友人に問われた時、理由を説明する事が出来なかった。その何気ない質問は、見た目大きいと思ったが実は身が入っていなかったり、小さな牡蠣なのに身がたっぷり入っていたり、そういう日頃の気づきにつながる。その都度父親に「なんでこうなるんだ?」と質問し、日常の仕事とリンクさせながら、知識を身につけて行った。そして、親父の仕事を盗むだけ盗んで「一から自分で育てて向き合えば、全ての質問に答えられる!」と自信がつく。顧客からの、量やサイズへの要望に応えるために「どうやったらより大きいのがとれるか?」「どうやったらより量がとれるのか?」という牡蠣漁師としての試行錯誤にもつながった。結局は負けず嫌いの精神。その後順調に売上を伸ばし、2008年に「奥松島水産」を法人格にし、翌年自身も家庭を持つ。

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「日本が終わった」

牡蠣漁師としての道筋が見え始めていた矢先、2011年3月11日の地震が発生する。その日はアサリの漁場調査を終え、長男の誕生日の写真を撮りに行く予定だった。しかしどうも気が向かず、ツナギに長靴の作業着のまま着替えもせず、出発も予定より遅れながら写真屋へ向かっていた。その道中大きな揺れに襲われ、これはただ事じゃないと感じ「おっぴいちゃん(祖母)だ!」と真っ先に東名にある実家へ向かった。到着するや、大きな揺れに集まった女工さんなど作業員が待機していたので、食料や毛布などを持って小さい頃に遊んだ裏山の民家へ避難する指示を出し、自身はフォークリフトで道の途中に止まった車の撤去作業に取り掛かっていた。そうしているうちに津波が襲ってきた。幸い怪我なく逃げる事が出来たのだが、親父が大切にしていた船や町が目の前を流れていく光景に、涙が止まらなかった。と同時に晃也さんは「日本が終わった」と感じたと言う。津波が去った後、子どもの頃から目に焼き付いていた東名の家々はぐちゃぐちゃに壊され、各家で壊れて鳴り続けていた呼び鈴を、無性に腹を立てながら叩き壊して回ったのを憶えている。
その日、両親はそれまで行った事のない塩竈市への配達に出ていた。二人の無事は電話で確認出来ていたものの、しばらく帰れる見込みが無い。従業員や地元の人たちは、無事に裏山に避難したし、食料もある。自分は作業着に長靴も履いている。「ここで誰がいま前を向くんだ?自分がテンパっている場合じゃないだろ。」彼は涙を拭い、顔を上げた。

続く負の連鎖

裏山での避難生活をしていた3日目。一番尊敬する親父ほどの年齢で、恩師のように慕っていた先輩牡蠣漁師に「種牡蠣を探しに行こう!」と誘われる。ガレキだらけの海にわずかに残された船で見に行くと、海には種牡蠣がまだ残っていた。それを見た先輩から「種はある!絶対に海の仕事を辞めるなよ!牡蠣じゃなくても、海の仕事をしろよ!」と船の上で励まされた。震災直後、自分に希望を持たせてくれた先輩は、1週間後に海で亡くなった。その日、先輩が使う船が沖で弧を描いて回っていると聞かされた。それは、船から人が落ちたという証拠。落ちた先輩を最初に発見したのは、潮の流れを見極め、すぐに捜索に出た彼だった。おそらく船で移動する最中、なんらかの拍子で落水したのだ。「なんで震災では助かったのに、こんなくだらない事で死んじまうんだ。」
漁業の再開に関しても困難は続いた。共同で牡蠣養殖を再開しようとしていた組合に対して、晃也さんは「補償目当てで俺たちは牡蠣を作るのか?」と、異議を唱えた。最終的には、ガレキ撤去の共同作業は手伝い、牡蠣養殖は自力での再出発を決めた。共同作業は晃也さん、牡蠣は親父と目の前のやるべき事に集中し、2011年の夏には来季分の牡蠣の種付けに成功をした。しかし、共同作業を一緒に行う浜の組合員の心情は複雑だ。まずみんなで海を片付けるのが先だろう?その心情も、自分の置かれる立場も分かっていたからこそ、晃也さんは当初から共同作業に加わりたくなかったのだ。そんな環境に気持ちがすさんで荒れそうになった時、一人の先輩から「今は耐えろ」と諭された。「種牡蠣を採った。それで勝ちなんだ。」と。その先輩は仕事以外でも、常に冷静なアドバイスをくれ、妊娠中の嫁への気遣いなど、恩人とも言える人物。その先輩から「震災後これから、一緒に組まないか?」と言われた時にはすごく悩んだ。しかし、彼は親父と組む事を選択し、先輩はそれを良しとしてくれた。今でも「親父と組む。羨ましいなぁ」と言われる間柄だ。その後は雑音も寄せ付けず、自分のやる事に集中する事が出来た。震災直後に亡くなった先輩、自分を正しい方向に向けてくれた先輩の二人は、晃也さんの中で大きな存在となっている。

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家族への気持ち

2013年の夏、種牡蠣の作業を終えて沖から帰ってくると、尋常じゃない着信数があった。親父が倒れたのだ。「普通にいた人が、突然いなくなるってこういう事なのか。」急いで病院へ向かう途中、24歳で初めて船を操縦した時と同じ気持ちになったと言う。病室の親父は意識があったものの、会話は出来ず。けれども必死に手振りで、晃也さんに何かを伝えようとしていた。その手を制して親父には「おれに任せてくれ」とだけ伝えた。この言葉は母・量子さんが、父を安心させるために晃也さんに言わせた言葉。翌日から「親父がいなくなっても牡蠣やるんだべ?」と、浜の人たちが気遣ってたくさん声を掛けてくれた。「自分で言うのもあれなんですが、オヤジってすげーんですよ!最近ようやく、くるぶしくらいまでになって来たかなぁ?」と笑って言う。震災なんて微々たるもので、目の前の親父がいなくなる方がよっぽどツライ。それだけ親父を尊敬しているし、自分も父となって、親父の偉大さを改めて知っていた。だから、母に言わされた言葉だが「おれに任せてくれ」は晃也さんの本心であり、目標なのだ。無事に回復し、今日も元気な親父は「おれに任せろだ?」と晃也さんを時々茶化す。そんな時は、決まって聞こえないフリをしている。

晃也さんは父として二人の子どもたちに、自分と同じくいろんな人たちと会い、たくさん遊び、元気に育って欲しいと願う。その願いは、二人の子どもたちは怪獣さながら、今日も新しい傷を作りながら元気に遊んでいるのをみると、どうやら叶いそうだ。それより晃也さんは、まずは一日でも早く両親を安心させたい気持ちが一番だと言う。父・達也さんは今でも、沖から息子が無事に帰って来るのを確認しているそうだ。漁から戻る船から親父の部屋のカーテンが決まって揺れるのを、晃也さんは見て分かると言う。父自身のケガで、当時24歳の息子を一人沖に向かわせた日から変わらない光景で、当時は無事に帰って来られるか不安でしょうがなかったのかもしれない。僕が知る父・達也さんはとてもぶっきらぼうなのだが、その何倍も温かくて優しい人だ。船名には「一優晃丸(かずゆうこうまる)」と3兄妹の頭文字をとって名付けてもいるほど家族想い。だから、部屋のカーテンが今も帰る頃に揺れるのは、あの日のような心配でなく、きっと船名の通り“一番優秀に光る船”を操る息子へ「おかえり、ご苦労さん」と言っているに違いない。
苦難を乗り越えて来た負けず嫌いな親子は、今日も自慢の牡蠣でしっかりとつながっている。

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文/写真:太田将司 2015.05

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