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忘れていくこと

今となってしまえばこうも思う。以前のように、数か月に一度くらい会うだけの人でいてくれたら良かった。辛い思いと、幸せな思い出が、私をいつまでもここに閉じこめてしまう。


思えばそれまでの私の人生は、青かピンクかがほんの少し、混じってるのかどうかすらわからないほど、無色に近い濁った乳白色だった。数カ月に一度、会えた時にだけ、ほんの一瞬ステキな色に染めてくれるのがその人だった。月に一度、長い時は半年くらい連絡がないこともあったけど、それでもそんなに辛くはなかった。光り輝く一瞬があって、またすぐ元の薄く淡い色に戻る。私は自分のその淡さに慣れすぎていて、濃く染まる一瞬は、まるで通りすぎる台風でしかなかった。元の生活は相変わらず、台風が通りすぎてしまえば凪だった。


5年間も濃く染まった時間を過ごしてしまった後で、会わなくなった今、少しずつ少しずつ薄まっていき、ようやくほぼ元通りの乳白色な人生に近づいてきた。時に心がざわつくこともあるけれど、おおむね元通りの凪。凪と言えば聞こえはいいが、濁った無風の変わり映えしない毎日。もう痛みはない。ゼロではないけどチクリと痛む程度だ。だからこそ文章が書ける。だいぶ時間が必要だったけど、ようやくここまで戻ってきた。戻さざるを得なかった。長かったのか短かかったのか、それはわからない。人によって時間の感覚は違うだろうし、誰かと比較するものでもないだろう。


後悔はしていない。一緒に過ごしていなければできなかったことがたくさんあるから。たくさんのことを教えてもらったから。食事を楽しく食べること、きれいなものを見ること、心が安らぐこと、優しく抱きしめ合うこと、芯から体が悦ぶこと、物事を深く考えること、真摯に生きること。それまでの私には見えてなかった世界がたくさんあった。それを自然に当たり前のように、与え、見せてくれた。隣にいるだけで違う自分になることができた。でももうそれは、素敵な思い出になってしまって、今の私の周りにはない。やっぱり世界が違ったんだな。本能的に一番最初から抱いていた不安。改めて気づかされる。


2人でお金を出し合って借りた小さな部屋だけがすべてを許してくれる特別な場所だった。そこでご飯を食べてくだらない話をして、ほんの数時間二人きりの時間を過ごすことが、当たり前の毎日。夜が明ければまた会うことができる、それが歪んだ日々に突きつけられる切なさを上手に隠してくれていた。


タコ焼き器、お1人様用のホットプレート、冷蔵庫、調味料。一応ないとカッコつかないからという理由だけで設置されてる狭いキッチンで、なんでも器用に作ってしまう。私は座ってビールを飲んで待つだけ。たまに後ろから抱きついて邪魔をしても、はいはい、待っててね、と飼い犬のようによしよしとされるだけ。そんな毎日が永遠に続かないことはわかっていたけど、そんな先のことを考えるのもあまり意味のないように思えた。


ほとんど何にも文句を言わない人だった。喧嘩するのはいつも私のわがまま。何をしても何でもできちゃう人だった。仕事で失敗しても、誰にも気づかれないほどさりげなくそっと直してくれていた。知らない土地へ行って知らない人と出会っても、私の友だちに会わせても、誰とでもすぐ仲良くなってしまう、楽しく話せてしまう。私の友だちのことも私と同じように大切に考えてくれる人だった。忘れ得ぬ人。そんな表現がちょうどいい。


私だけのものじゃない。それ以外には何の文句もない。そのたった一つの不満を除けば、全部好きだった。あんなにも深く心の底から愛しく思ったことはない。よくあるセリフだけれども、きっともう二度とあれだけの思いで人を好きになることはできない。お互いそれまで年齢を重ねて、いろんな経験をしてきて、そしてやっと辿りついた人だった。


同じように感じてくれて、同じように愛してくれて、同じように愛し合える人なんてやっぱりいないんだな、そう諦めていた時に現れた人だった。たぶんそれは、いや間違いなくきっと、あの人もそう思っている。そのくらいはわかる。


これから先どうやって生きていけばいいのかわからない、なんて傷つき落ち込んでいるわけでもない。二度と顔も見たくないとも思っていない。いい思い出になったわけじゃない。どうしようもない寂しさに押しつぶされそうになったりもしない。多くの感触はまだまだリアルに手元にある。思い出そうとするときもあれば、不意に五感が刺激されてしまうときもある。景色や音、言葉やにおい。そんなものが体のあちこちに染みついている。


それでもすっかり淡色に戻った日々の中で、思い出せないことも確実に増えている。顔や場所や出来事をどんどん忘れていっている。あと何年かすれば、もっと色んなことを思い出せなくなるんだろうと思う。



ただ、誰にもわからない、二人だけの時間があった。ということを懐かしく思う。
その思いだけはいつまでも色濃く残っている。


もう少しするとあなたのBirthday。
きっと私は世界中の誰よりもあなたがこの世に産まれてきてくれたことに感謝をしている。お誕生日おめでとう。


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