見出し画像

Fish in the tank

 
 結局の所、その日はその後も教授が現れる事はなく、生徒の四人はとりとめのないお喋りを続けたり、またそれぞれの作業に戻ったりしては長い時間を過ごしていた。

 研究室の窓から見える大学の景色は、その間に徐々に日の光を失って、夕時が近づく頃にはすっかり蒼ざめて暗くなっていた。

 一向に現れない教授を待ち疲れて、最後は日を改めてまた来ようという事になり、研究室を全員で後にして外に出ると、四人は構内の外れにあるバス停までの道を、寒さに身をすくめながら少し足早に進み始めた。

 昼間は人影が見当たらないように思えた休日の構内も、夕方になると練習終わりの運動部やリクルートスーツを着た学生がちらほらと行き来していて、美雪が何気なく校舎の一つを見上げると、休みのわりには明りのついている教室もたくさんあるのがわかった。

 その隣で飛鳥はクリスマス用の電球が巻き付けられて煌々としている並木を見上げていて、次第に昨日の事を思い出しそうになっている自分に気づくと、すぐに目を伏せて違うことを考えようとし始めた。

……やっぱり、あんな人好きにならなきゃ良かったんだ。

 飛鳥はそう考えた後に、渦巻いてくる嫌な感情を沈めようと、ぎゅっと目を瞑った。

 その少し後ろで、雄二は帰ってからしなければいけない事を思い浮かべては整理していて、青柳は一番後ろで音程の外れた謎の鼻歌を歌っている。

 しばらくすると、遠くにバス停とバスを待つほかの学生の長い行列が見えてきて、四人はその最後尾に並ぶと、手を擦り合わせたり、マフラーに顔を埋めたりして他の学生と同じようにバスを待ち始めた。

「……っていうかさ、なんでこんなに並んでんの?いつもは行列なんてできないのに」

 飛鳥が雄二にそう聞くと「……オレに聞かれても分からない」と雄二が短く答えて、その後に並んでいる他の学生の会話などを聞きながら状況を窺っていた美雪が、どうやらバスが予定から大幅に遅れて、かれこれ一時間以上も姿を現していないらしいという事を突き止めた。

 次第に寒さの中で待ち続ける事に痺れを切らした他の学生が列から抜け始めると、「あたし達も歩いて駅まで行こうよ」と飛鳥が言い出して、雄二も美雪も青柳も、徒歩でもバスでもどちらでも良かったので、結局飛鳥に続いて列から離れると、構内をまたしばらく歩いて正門から大学の外に出た。

 時刻は夕方から夜に移り変わる境目で、飛鳥が何気なく空を見上げると、夕日が沈んだ後の空が透き通るような紫色に染まっていた。

「この時間帯ってさ、何か景色が綺麗に見えるよね?」

 飛鳥が隣にいる美雪にそう話しかけると、美雪も一度空を見上げて、それから目の前の道路を流れていく車の光を眺めた。

「空気が澄んでいるからかな?」

歩きながら美雪がそう答えると、青信号の横断歩道を半分ほど渡った所で「……マジックアワー」と雄二がぼそりと呟いて、「何て言ったの?」と聞き返す飛鳥に、その説明をし始めた。

「マジックアワー。日没後の数十分間は、光が柔らかく見えて景色がすごく綺麗になるんだ。……この時間帯を狙って写真を撮ると、誰でも、魔法みたいに良い写真が撮れるって言われてる」

「何でそんな事に詳しいの?」

飛鳥がまた聞くと、雄二は前を見つめたまま、「写真を撮るのが趣味だから」、とだけ答えた。

……そんな趣味があるなんて初めて知ったな、と思いながら、美雪も周りの風景を眺めてみると、確かに、雲の少なくなってきた空に映える三日月も、路上を照らす自販機の光も、ありふれているはずなのに、少しだけ特別に見える気がした。

 四人は、しばらく道なりに真っ直ぐ歩くと、駅までの近道をするためにコンビニの手前の道を左に曲がって、真新しい家の建ち並ぶ新興住宅地に入っていった。

 そこで整然と並ぶ家々は建てられてほとんど時間が経っていないのか、どれも綺麗で統一された造りになっていて、まだ人が住んでいない家も多いのか、明かりがついている窓も少なかった。

「私、いつもバス使ってたから、この辺り歩くの初めて……」

 まだ骨組みの状態の家の前を通る時に美雪が言うと「あたしも大体バスだけど、考え事とかしたい時はよく歩くよ」と飛鳥が答えて、「じゃあ、今日は何か考えたい事でもあったわけ?」と青柳が少し後ろから聞くと、飛鳥は足元を見つめながら少し考え込んだ。

「うんまぁ、別に大したことじゃないけど……」

 すると、話の途中で後ろから車が何台か連続的に来て、全員でガードレールの内側の狭い道に退避すると、しばらく一列に並んでその道を歩いて、車が来なくなったのを確認してから、また車道の方に広がって歩いた。

「あのさ、みんなはさ、運命を変える出会いって経験したことある?」

 唐突な飛鳥の質問に、「それって恋愛の話し?」と美雪が聞き返すと、まぁそれだけじゃなくてもいいんだけど、と言いながら飛鳥が説明を付け加えた。

「人は生きているうちにそれが本当は何度もあって。みんな気づかないうちにそれを見逃すから幸せになれないんだって」

「それは誰が言ってたの?」

「……カナイ君」

「カナイ君って誰?」

「……まぁ、とにかくさ、それってあと何回あるんだろうって思って」

「大丈夫だよ。飛鳥ちゃんならいい人にたくさん出会えるよ」

 美雪にそう言われて、そうなのかなぁ、と言いながら、飛鳥は新築の庭に作られた家庭菜園を眺める。その横顔をちらちらと窺いながら、こんな可愛い子でも、そういう事で悩むんだ、と美雪は内心で思っていた。

 そんな二人の会話に加わらずに、少し離れた場所からその様子を眺めていた雄二は、美雪の小さな背中を見つめながら、この子はどうして他人にそこまで寛容でいられるんだろうと考えていた。

 飛鳥はそれなりに見た目が良いせいか、ゲイの雄二でもはっきりと分かるくらいに他の男子からは人気があって、そんな人間が、真逆と言ってもいいくらい目立たないタイプの美雪に対して出会いの話をするなんて、少し無神経な事のように雄二には思えた。

 思い返してみれば美雪は今日だけでも、生徒との約束を平気ですっぽかす教授にも、子供みたいに暇つぶしの相手をさせてくる青柳にも、無愛想な態度ばかりを取る雄二自身にも、一度も怒ったり、不満を見せることなくその振る舞いを受け入れている。

 そんな風に雄二が考えていると、飛鳥が歩く速度を急に落として、他の三人から大きく離れ始めた。

 黙り込んだままずっと下を向いて歩いているので、不思議に思った美雪が近寄っていって様子を見ると、飛鳥が声を出さずに泣き始めているのでびっくりした。

「……どうしたの?」

「……なんか話してたら、急に悔しくなってきた…」

 とうとう道の隅に立ち止まって、地面に涙を零し始める飛鳥を見て、美雪は、さっきの運命や出会いなどの話の流れから、何となく原因は恋愛関係だろうと事態をすぐに察した。

「彼氏とかと何かあったの?」

「……浮気されて捨てられた」

「え?いつ?」

「……昨日」

 声を震わせる飛鳥の頭を撫でながら、こういうときに何と言って慰めたらいいのか分からず、美雪は助けを求めるように雄二を見た。

 しかし、見られた所で雄二もどうしたらいいのか分からず、こんな事になるなら、やっぱり一人でバス停に残れば良かったと、この場に居合わせた事を内心で後悔し、そしてそう考えてしまう自分を、どこか狭量にも感じていた。

 人気のない静かな住宅地では、それ以降は通行人も車も何も現れなくて、どこからともなく聴こえてくる山鳩の鳴き声だけが辺りに響き渡っていた。

 その鳩はドゥードゥーと低く短く鳴いた後に、ポッポーと高く長めに鳴いて、それを規則正しくリズミカルにひたすら繰り返していた。

 ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー、ドゥードゥー、ポッポー……。

「そうだ、アイス食べようよ」

 突然、青柳そう言い出した。

「……アイス?こんなに寒いのに?」

 思わず泣き止んだ飛鳥は、顔を上げてそう青柳に聞き返した。

「……いや、あのね。寒いからこそ思い出になるっていうか、なんていうか、思い出作りみたいな……、ほら、大切じゃん?思い出って…ねぇ?」

 自分でも何を言っているのか青柳はだんだんわからなくなってきたが、とにかくその場の空気を何とか変えようと必死になっていた。

 しかし理由を取り繕おうとすれするほどその話しは支離滅裂になっていき、そろそろ助けを求めようと雄二に目線で合図を送っても、雄二はさっきから透明にでもなったかのように気配を消して俯いている。

「とりあえずさ、どこか座れる場所探して落ち着こうか?」

 美雪がそう言ったことでようやく話しがまとまる兆しが見え始め、「オレも今それを言おうと思ってた!」と青柳はすぐに同調した。

 飛鳥も感情が静まってくるにつれて周りにまた迷惑を掛けてしまったという後悔が沸いてきて、コートの袖で目元を拭いながら、「……皆ごめんね」と小さな声で謝った。

 それから四人は青柳の提案通りコンビニに寄ってアイスを買うと、そこから少し歩いた先にあった小さな公園に入った。時計台の近くに並んでいるベンチを見つけてばらばらに座ると、特に何を話すでもなく、それぞれが自分のアイスを無言で食べ始める。

 ……あたし、こんな真冬に何してるんだろう。

 そう思いながら飛鳥も自分のアイスの蓋をあけると、それをプラスチックのスプーンですくってゆっくりと口に入れてみた。

「……冷たい」

 当たり前の感想を口にした後に、周囲に等間隔に立っている外灯を何とはなしに眺めると、白い照明の周りには虹色の輪がぼんやりとできていて、目を細めると光が放射状になって広がった。

 その光に照らされた周囲の枯れ木は風がないせいか枝も僅かに残った葉も全く動かなくて、ずっと見ているとそこだけ時間が止まってしまったような錯覚を覚えた。

 それから飛鳥はアイスをまた少し口に入れて、残り全てを近くに座っている青柳におもむろに差し出した。

「……もう食べれない」

 飛鳥にそう言われた青柳はそのアイスを受け取ると、ほとんど減っていない中身をしげしげと見つめた。その流れに便乗するように、……あ、私ももう無理かも、と美雪も言い出して、結局二人のアイスは食べようと言い出した青柳が責任を取って全て食べることになった。

 青柳は三つのアイスを忙しなく食べながら次第に寒そうに震え出し、なかなか減らないアイスに苦悶の表情を浮かべながら、どうしてこんなものを食べようと言い出したのかと後悔し始めていた。

 その様子を見ていた雄二は我慢できずに笑い出して、そして最初は黙ってそれを見ていた飛鳥も、いつしか同じように笑い始めていた。

「……もう平気?」

 心配そうに聞いてくる美雪に笑顔で頷いた時に、飛鳥は急に昔見た恋愛映画のワンシーンを思い出して、その事を改めて自分の中で理解した気持ちになった。

「セレンディピティーって、本当は今日みたいな事を言うのかもね」

「……何の事?」

「意味のある偶然って意味なんだけど。考えてみるとさ、あたし達なんでもっと早く仲良くなれなかったんだろうって思うよ。美雪ちゃん真面目だし大人しいから、あたしとは話が合わないタイプかなって思ってたけど、こうやって喋ってみるとなんか思ったより全然波長が合うっていうのかな?すごく一緒にいてしっくりくるんだ」

「わかるよ。私も今日途中からずっと思ってた」

 美雪も笑顔になってそう言うと、嬉しくなった飛鳥は美雪の手をふいに握りしめた。驚いた美雪は自分の手を慌てて飛鳥の手から引き抜くと、そのままコートのポケットの中にさりげなく隠してしまった。

 不思議そうな顔で見つめてくる飛鳥に「前世があったら親子とか姉妹かもね」と美雪が笑顔を保ったままそう言うと「もしかしたら兄弟だったかも」と飛鳥は冗談を言うようにそう返して、そうだったらウケるね、と笑い合っているときに美雪は何故か涙が出そうになった。

 その隣のベンチで座っていることに飽きてきた雄二は、しばらくすると立ち上がって公園内をうろつき始め、金属板を捻じ曲げたようなオブジェが中心にある池の近くに行って、その中を覗き込んだ。

 池の中には鯉が何匹か放されていて、近寄ってきた雄二に餌をもらえると思ったのか、水面に口を出してパクパクと喘がせていた。

 青柳が雄二の後に続いて池に近づくと、飛鳥と美雪も後からついて来て、四人でしばらく池を泳ぐ鯉たちを眺めていた。

 夜の池は外灯の光が溶け込んでジンジャエールのような金色になっていて、水面には落ち葉や、誰かが落とした野球ボールなどが浮かんでいた。

「……鯉ってさぁ、何年くらい生きるのかな?」

 鯉を見ながらそう言いだす飛鳥に、美雪が少し間を置いて答える。

「結構長生きするって聞いたことあるよ。……十年とか。二十年とか。……どうして?」

「……いやぁ、暇じゃないのかなって。こんな狭い池で…」

 真剣な顔で魚の心配をしている飛鳥に、美雪は思わずくすりと笑った。

「……でも、鯉には鯉の楽しみが、何かあるのかも知れないよ?」

 含みを持たせながら美雪がそう返すと、飛鳥は妙に納得した様子になって、また池を泳ぐ鯉達を見つめながら、何度か真剣に頷いた。

 美雪は飛鳥の様子を見ているうちに、アトピーで荒れた手を触られたくないと思って反射的に引いてしまったさっきの行動が途方もなく大げさに思えてきて、ポケットに仕舞い込んでいた手を外に出すと、おそるおそる飛鳥の手に触れてみた。

 そして何も考えずに池の水面やその中で動く鯉をぼんやりと眺めていた青柳は、池の中心に、何やら緑色の光が映りこんでゆらゆらと揺れている事にふいに気がついて、不思議に思ってその一点を凝視した。

 顔を上げて周囲を見渡してみても、緑色の照明などはどこにも見当たらず、青柳はゆっくりと池の真ん中を横切り始める不可解な光をしばらく睨むようにまた見続けて、それから何かにはっとして空を見上げた。

 そうすると、真冬の上空を、緑色の火の玉のような何かがゆっくりと通過していて、青柳は言葉を失ったままその光景に釘付けになっていた。

 上を向いたまま呆然としている青柳の様子に気づいた雄二が一緒に空を見上げると、そのすぐ後に飛鳥と美雪もそれに気づいて空を見上げた。

「うそでしょ!あれUFOじゃない?」

「……え?流れ星でしょう?」

「大きすぎだよ!動きもゆっくりだし!」

「飛行機じゃないの?」

「絶対違うって!」

「隕石じゃないの?」

「じゃあ落ちたらやばいじゃん!」

「……ノストラダムス?」

「いつの話だよ」

「地球終わった!」

「……終わらないよ」

「願い事する?」

「だから……あれ、流れ星なの?」

「やばい!やばい!」

 緑色の光は、冬の空に広い放物線を描き、遠くに見える山の稜線に触れる直前に、一際大きく光を放って消えていった。

 何も見えなくなってからも、四人は遠くの空を見ながら光の正体に関して興奮気味に意見を交わしていて、小さな夜の公園にはその楽しげな笑い声がいつまでも響いていた。

 それから、違う路線で帰る雄二や飛鳥と別れた後に、青柳は駅のホームで少し疲れを感じてぼんやりとしていた。

「……何か良くわからないけどさ、すごいもの見ちゃったよね」

 同じ路線で帰る美雪が隣でそう話しかけても、青柳は「あぁ」とか「うん」などの適当な返事しかしなくて、またぼんやりと遠く見ながら何も話さなくなってしまった。

 青柳が急に黙り込むと美雪もそれ以上何を話したらいいかよく分からず、相手から目を逸らすと、沈黙を紛らわせるために次に来る電車の時刻と自分の腕時計を交互に見た。

 周囲に視線を巡らせると、夕方過ぎのホームにいる人もまばらで、皆俯いたまま、白い息を吐き出したり、足踏みをしたりして寒さを和らげようとしていた。

「……そういえばさ、青柳君って、来年から何の仕事するの?」

 何か話題を作ろうと美雪が就職の事をまた聞くと、青柳は一瞬、どうしてそんな事を聞くんだろうといったような顔になって、それから、気を取り直してその質問に答える。

「……うん。飲食店でさ、働くと思う」

「へぇ。青柳君って飲食業界志望だったの?」

「……え?違うよ。……特に他にやりたい事もないし、……バイトで慣れてるから楽かなぁって思ってさ」

 それで好きでもない事をだらだら続けて、嫌になったら途中で投げ出すのかもな、と青柳は内心で思いながら、美雪に気づかれない程度に小さく溜息をついた。

「仕事、楽しみ?」

「……全然」

 青柳は思わずそう口走った後に少し考えて、「…でも本当はどんな事でも、自分なりに楽しみを見つけられるように努力していかないと、結局何をやっても駄目なんだと思う」とどこかで聞いた受け売りを付け足した。

「大人だね、青柳君は。私は結局内定取れなかったよ。箸にも棒にも引っかからないっていうのはさ、こういう事かって思い知らされたよ」

 美雪は笑顔でそう言った後に、……やっぱりこんな顔のせいだよね、と心の中で呟く。

「……大丈夫だよ、来年は上手くいくよ」

そう言いながら青柳は無責任に美雪を励ますと、また遠くを眺めた。

 ホームから見える冬の夜空には雲がほとんど見当たらなくて、針金のように細い三日月と、白い一等星がまばらに輝いていた。

 それから会話が途切れて、また二人で黙り込んでいると、制服を着た中学生達が、楽しそうにはしゃぎながら二人の前を一瞬で走りすぎていった。

 そんな風にしていると、アナウンスの後に電車がホームに滑り込むように入ってきて、開いた扉が降りる乗客を吐き出し終えるのを待ってから、鳴り響く発車ベルに急かされるように二人は電車に乗り込んだ。中に入ると車内は暖房が効いてもう寒くはなく、二人はつり革に掴まりながら、隣り合わせに立った。

 電車がモーターの音を呻らせながらゆっくり動き出すと、美雪は青柳との間にできる沈黙を避けるようにまた話し始める。

「考えてみたらさ、なんか私達って、あんなに皆で仲良く話したのって初めてだったよね」

「……確かにそうだね」

「今更遅いけど、もっと早く仲良くなってれば良かったな……。私ね、今までああいうのずっと避けてたから」

「ああいうのって?」

「……他人と必要以上に関わり合おうとする事。……ほら、私こんな肌だからさ、小さい時とかはいじめの標的によくされたりしてさ、実を言うと、中学くらいまではしょっちゅう不登校とか繰り返してたんだよね」

 美雪は吊り革を持つ手を変えながら、話しを続けた。

「……高校も私立の女子高に通っていてね、田舎で周りにあんまり遊べる所もなくて、しかも中高一貫だったから人間関係とかも本当にややこしかったんだよね。やっぱりイジメとかも頻繁にあったから、それに巻き込まれないようにするのが本当にしんどくてさ、毎日誰かの陰口に一生懸命相槌を打ったりとか、髪型とか持ち物が力のあるグループの女の子達と被らないように常に気を配ったりとか、グループ同士の権力の均衡とかが崩れる度に、昼食を誰と食べちゃいけないのかとか、帰りは誰と帰っちゃ駄目なのかとか、そんな下らない事に必死に神経を張り巡らせたりして……。最後にはそういう人間関係とか、何もできずにひたすらびくびくしている自分にうんざりして、高校を卒業したら、できれば、誰とも関わらずに、山奥みたいな所でひっそり生きていきたいとか、変な事ばっかし考えてたんだ」

 そういえば、美雪がこんなに自分の話を勧んでしたのは、この時が初めてだった。それに思い至りながら青柳はその話に黙って頷く。

「だから大学はね、広い教室で、好きな席に座って、たくさんの知らない人に紛れて授業受けるだけで良かったから、最初はすごく天国みたいに思えた。でもそれだと本当に何も起こらなくてさ、気づいたら、毎日何のために学校行ってるのかもだんだん分からなくなって、しばらく大学さぼって自分の部屋にずっと引きこもって、毎日携帯いじったり、ひたすらパソコンばっかし見てる時期があったんだ。それで生活リズムとかも滅茶苦茶になってね、ネットサーフィンとかしながら朝方まで一人でずっと起きてたりして……」

 急行の電車は止まらない駅を一瞬で通り過ぎて、反対路線の電車とすれ違うと、車内に轟音が響いた。美雪はそれが鳴り終わるのを待ってから、また話しをする。

「……朝方の四時くらいだったかな?ある時、海外の観光地が映された動画に行き着いてね、森の中に、おとぎ話にでも出てきそうな泉が沸いて広がっている場所なんだけど、その泉が青いインクでも流し込んだみたいにすごい透き通った色でね、泉の底で魚とか蛇とかが泳いでるのも全部見えて、それでいて太陽の光を反射して全部きらきらしてるの。毎年世界中からたくさんの観光客が、いくつも飛行機を乗り換えて、車を何時間も走らせてその泉を見に来るんだって。……でもね、あの頃、私はその手触りのない景色をパソコンで見ていてね、素直に感動できなくて、あぁ、今の私の生活みたいだなって何故か思ったんだよね。…無害で綺麗なだけの景色をずっと見ていると、なんだかものすごく寂しくて虚しい何かを同時に見ているような感じがして、ずっと見てたら、その中にずっと閉じ込められちゃうような気がしてすごい苦しくなったんだよね…」

 そこまで言い終えて美雪は何気なく青柳を見ると、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、しばらく点検するみたいに相手の顔を見つめて、それから慌てて鞄の中からポケットティッシュを取り出して手渡そうとした。

「……どうしたの?」

「いや、自分でもよく分からないんだけど……」

 そう言いながら青柳は、溢れてくる涙を止めようと両手で顔を必死に抑えていた。

「ごめんね、私が暗い話しばかりしすぎたからだよね?」

「……違うんだ、そうじゃないんだけど、オレも昔いじめられた事あって」

 驚いている美雪にそれ以上を説明することがどうしてもできず、青柳は深呼吸を繰り返して震える体をなんとか落ち着けようとしていた。
 美雪の話しを聞いているうちにそれがまるで自分の事のように思えてきて、捉えようのない感情が抑えようもなく後から後から膨れ上がっては涙へと変わっていった。

 しばらくすると、電車は主要な駅に停車して、扉が開くとたくさんの人が降りて、たくさんの人がまた乗車した。

 美雪は空いた席に青柳を座らせると、自分もその隣に座って、その背中をゆっくりさすり続けていた。
 家に帰るためには今の駅で乗り換えなければならなかったが、このまま青柳を放置して帰るわけにもいかず、発車のベルの後に、閉まる扉を黙って見つめていた。

 ……今日は本当に変な日だな。

 美雪がそう思いながら向かいの窓外の景色を見ていると、飲食店や金融会社のネオンサインが次々と視界を通り過ぎていって、それから線路沿いの雑居ビルの中で様々な人が働いている様子が流れていった。

 速度が上がるにつれて、建物の照明は光の帯に変わり、それが途切れて景色が急に広くなると、そこには夜の街が静かに横たわっていた。

 深いネイビーの夜空の下で、白や黄色やオレンジの街の光が無数に瞬いていて、じっと見ていると、それは海の底で発光する深海魚の群れのように美雪の目に映った。

 ……もしかしたら。と思いながら美雪はその景色をじっと見つめる。

 もしかしたら、ああいう夜の底には数え切れないくらいの不安や寂しさが隠れていて、きっとみんな、誰かに見つけて欲しいと願いながら、どうしていいか分からずに暗闇の中でじっと息を潜めているのかもしれない。

 ふいに沸いたその感傷を、美雪は自嘲的な気分になって押し込めると、また青柳の方を向いて、様子を見ながら話しかけた。

「……そうだ青柳君。来年でも再来年でもいいからさ、そのうちみんなで集まって、真冬に外でアイスとか食べようよ」

 美雪にそう言われて、青柳は顔をあげた。

「飛鳥ちゃんの言っていた運命の出会いってさ、何も恋愛だけじゃなくていいと思うんだ……。本当は相手が誰であってもさ、その出会いを奇跡だって信じられるかどうかが一番大事なんだと思うよ。だから、私は今日をその一つに数えてみようかなって……」

 そこまで言うと、美雪は少し下を向いて、また顔を上げると、恥かしそうに笑った。

「なんか変なこと言ってるね。私も今日はちょっと変になってるかもしれない」

 そう言うと、自分のバックから今度はハンカチを取り出して、青柳に渡した。

「これ、返さなくていいから」

 そう言って差し出された美雪の手は、細かい傷や瘡蓋が幾重にも重なっていて、そしてその指先を見ているうちに、青柳は何か大切なことに気づかされたような、それでいて、どこかすんでのところで掴みきれないような、もどかしい気持ちに襲われ始めていた。

 それから電車は、外灯が映りこんで煌いている夜の河川を越えてから、次の駅に停車した。

 扉が開くと冷たい冬の空気が車内に流れ込んできて、またたくさんの人が降りて、それからたくさんの人が乗ってきた。甲高い声の車掌がアナウンスで特急列車の待ち合わせ告げると、電車はしばらくその駅から動かなくなった。

「じゃあ、私はここで降りるね」

 そう言って美雪がホームに降りると、青柳は座席から立ち上がって、ドアの近くで見送ろうとした。

「……今やってる卒論出しちゃったらさ、次に会うのは卒業式だね」

 そう言われて、咄嗟に青柳は美雪をここで引き止めなければいけないような気がしたが、次に来る言葉を探しているうちにドアは素早くしまり、ガラス窓の向こうで、美雪が笑みを浮かべてこちらに小さく手を振っているのが見えた。

 電車が動き出すとすぐに美雪は視界の隅に消えてゆき、やがてホームが途切れると、青柳は車窓に背を向けて、理由の分からない脱力感に包まれたまま、ぼんやりと車内の中吊り広告を眺めていた。

 自分のアパートに着くと、雄二は冷えたままのコタツに入り、しばらく何もせずに電源の入っていないテレビの暗い画面をみつめていた。

 それから思いついたようにリモコンで電源を入れると、チャンネルをあちこちに動かして、最後にニュース番組に合わせると、リモコンをコタツの上に置いた。

 番組ではニュースキャスターが今日の出来事を時系列に読み上げていて、それに合わせて映像が次々と切り替わっていた。薬物中毒で死亡した大物俳優の葬儀の様子や、日銀が発表した政策の指標の内容、その次に行政や企業が協力して開催したクリスマスイベントで、百万球のLEDを使って商業地区を一斉にライトアップしている華やいだ様子が繰り返し流されていた。

 それらの映像をぼんやりと雄二が見ていると、ふいに見覚えのある光景が映し出されて、その後にアナウンサーがまた話し始めた。

「……本日夕方頃、流れ星のような物体が強い緑色の光を放ちながら上空を通過しているという目撃情報が関東各地で相次ぎました。専門家は小惑星などの欠片が大気圏に突入し、燃えて光った物ではないかと話しています」

 例の緑色の光が空を流れている映像が映され、続けてそれに解説が加わる。

「……この物体が目撃されたのは、本日午後六時頃です。そして羽田空港に設置されている当局の定点カメラには、午後六時四分頃、画面上の中央付近から右に向かって、強い緑色の光を放ちながら物体が通過していく様子がおよそ八秒間に渡って記録されていました。また、東京湾に設置された当局のカメラにも同じ頃、強い緑色の光を放つ物体が画面の上から右の方向に通過していく様子がおよそ七秒間、捉えられています」

 その後も、様々な場所や角度からの映像が次々に切り替わっていき、最後に映像がテレビ局のスタジオに戻ると、アナウンサーがまた話し始めた。

「……この物体について国立天文台の小柴紀夫教授は、太陽系の小惑星の欠片が大気圏に突入した際に燃えて光った火球ではないかとした上で、破片が隕石として地球に落下した可能性もあるが、落ちたとしても、何ら影響のあるレベルのものではないと話しています。火球とは、流れ星の中でも特に明るいものの事を言い、日本では一ヶ月に数個程度観測されているとの事です。尚、最近は小惑星の発見と共に火球の目撃情報も世界各地で相次いでおり、その傾向から今後も目撃情報が増えていく可能性が高いとの事です……」

 しばらく火球についての関連映像が流れると、その後に一旦CMになって、車や映画や歯磨き粉など、様々な商品の映像が短い時間の中で印象を残しては次のものへと切り替わっていった。

 しばらくしてから再開したニュースはスポーツの話題になっており、最後は歳を取りすぎて引退説が流れていたフェザー級の日本人ボクサーが、世界タイトルマッチでチャンピオンに判定勝ちになり、リングの上でベルトを掲げながら泣いている姿が映し出されていた。……こんなに泣く程嬉しい事なんて、オレには多分一生ないんだろうな、と思いながらその映像を見ているうちに急に眠気に襲われて、雄二はテレビの電源を切ると、コタツの上で頬杖をついてうとうととまどろみ始めた。

 外で車が通る音や、誰かの遠い笑い声を聞いているうちに意識はほぐれて緩んでいき、やがて緑色の海に沈むように、暖かな感覚の中に体が沈んでゆくのを雄二は感じていた。

――でもどうしてだろう、今日みたいな一日だって、案外悪くない気がするんだ。

 そう思いながら、うつ伏せになって目を閉じていると、ふいに体が床から離れて遠ざかっていくような感覚が訪れて、雄二は妙に安心した心地のまま、眠りの世界の中にゆっくりと消えてゆこうとしていた。

 そして次の日、環状線沿いのとある駅で降り立つと、飛鳥は改札出口を抜けてすぐの電柱に「西田家式場」という案内看板がくくりつけられているのを見つけて、その案内に従いながらしばらくの間歩いているうちに、やがては目的地の建物が道路沿いに立っているのをすぐに見つける事ができた。

ゼミの教授が亡くなっていたという訃報が流れたのは早朝の事で、四人は何度かお互いに連絡を取り合った後、昼過ぎに行われるという告別式に参列する事を決めた。

 葬儀場の建物は、傍目からみればそうだとは分からないくらいに近代的で明るい雰囲気の造りていて、その入り口の付近で誰かと待ち合わせをしている喪服の弔問客だけが何故か場違いにも思える死の気配を示唆していた。

 敷地内の駐車場には所狭しと高そうな車が並んでいて、飛鳥はそれを眺めながら、あの先生は人嫌いだったのに、案外知り合いは多かったんだなと思っていた。

 時々車から降りてくる弔問客も、裕福そうな中高年ばかりで、そういう人たち特有のどっしりした存在感や、自分の人生に対する一種の自信のようなものは遠巻きからもよく見て取る事ができた。

 思った以上に早く着きすぎたせいか、式までにはまだ時間がかなりあって、飛鳥は受付で自分の名前を書いて、それから親に持たされた香典を渡すと、式場の中には入らずにしばらく外をうろついてみる事にした。

 葬儀場の敷地内には、特に知っている誰かがいるというわけでもなく、飛鳥はすぐにその外に出ると、環状線沿いの歩道を当てもなく突き進み始めた。

 道沿いにある店はどこも準備中なのかシャッターが降りている所が多く、時折顔を見せる営業中の札がかかったラーメン屋や中華料理屋も、中を覗くと照明すらついていないような店がほとんどだった。

 ……汚れた空気を吸っているうちに、やる気もなくなるんだろうか?

 どの店の庇もひどく汚れているのを見て、そんな勝手な想像をしながらまたしばらく道を歩いていると、時々大型のトラックが耳元をかすめるように轟音を立てて通り過ぎて行って、ガードレールがあるとはいえ、そこにいるとどうにも落ち着かない気分になって仕方なかった。

 やがて唯一まともに機能しているという印象のコンビニが見えてきて、立ち読みでもして時間を潰そうと思いついた飛鳥は、そのまま自動ドアを通って店内に入った。

「……あ」

 飛鳥が中に入ると、雑誌を陳列しているコーナーで雄二が先に立ち読みをしていて、雄二も飛鳥が店に入ってきたのに気づくと、何も言わずに、頷くようにして会釈した。

 ……何か話しかけづらいんだよなぁ、こいつ。

そう思いながら、飛鳥は少しタイミングを見計らってから雄二に声をかける。

「……美雪ちゃんとか青柳は見た?」

「……さっき来たばっかりだから分からない」

「……そっか。先に会場に入ってんのかな?」

 そう言いながら、飛鳥は近くにあった雑誌を手に取って、大して興味があるわけでもない北欧家具の特集に目を通し始めた。

「……小林はさ、悲しい?」

「……何が?」

「西田先生が死んだ事」

「……あぁ。正直あんまりピンとこないかな」

 雄二はそう言いながら雑誌から顔を上げて、ガラス越しの曇天をぼんやりと見た。
 訃報を聞いたときは、人が死んだという事実が差し迫った緊迫感をもたらしたようにも思えたが、しかしそれも時間が経つにつれて、どこか切実になれないような稀薄な気持ちへと変わってしまっていた。

「……あたしもあんまりピンと来ないんだよね」

 飛鳥もそういうと、おもむろに片方の靴を脱ぎ、履き慣れないせいで擦れたかかとをじっと点検した。
 どれだけ考えても、教授との良い思い出みたいなものは全然出てこなくて、資料を棒読みするだけの退屈な講義や、それが終わると一秒でも惜しいといった様子でそそくさと教室を出る後姿くらいの印象しかなかった。

 それから雄二は読んでいた雑誌を元の場所に戻すと、固まった体に血を巡らすように一度伸びをして、腕時計で時間を確認すると、「そろそろ行かない?」と飛鳥に言った。

「……人間ってさ、水槽の中を泳いでる熱帯魚と同じだと思う」

式場のセレモニーホールに一人で座っている美雪を見つけると、何の前触れもなく青柳はそう声をかけた。

「……え?何の事?」

 いきなり話しかけられて驚いた美雪がそう聞き返してみると、青柳は自分の言いたい事をまとめるために一瞬目を伏せて、それから美雪とまっすぐ目を合わせると、葬儀場に来るまでに考えていた事を話し始めた。

「オレ達ってさ、結局他人との関係性の中で生きているんだよ。水槽の広さって、縦と横と高さで決まるでしょ?縦が自分だったら、横が他人で、高さはお互いの関係性。出会った人達とどういう風に過ごすかで、水槽の広さが決まっちゃうんだよ」

 唐突に深い話をしてくる青柳に、どう答えたらいいか分からずに美雪がしどろもどろになっていると、「ねぇ、いつからいたの?」と言いながら飛鳥達が後ろから声を掛けてきた。

 ふいをつかれた美雪は一瞬びくりと肩を震わせて「……あ、一時間前かな。……特にすることもないから座ってたら、ついさっき青柳君が来て……」と青柳の方を見れないまま、足元に視線を落とした。

「……あ、もしかしてあそこに先生いるの?」

 二人の間に流れる空気に何も気づかないまま飛鳥は祭壇の前にある棺を見つけると、座席の列の間の通路を早足で歩いて行って近寄って、おそるおそる中を覗き込んだ。

「……あれ?先生、こんな顔だったっけ?」

 後ろから付いてきた雄二も一緒に中を覗き込むと、少し歪になっているその死顔をまじまじと見つめた。

「……防腐処理とかする時にさ、防腐剤のせいで顔が腫れて変形しちゃう事があるんだよ」

「……へぇ、詳しいね」

「うん、じいちゃんの時もそうだったから」

 そう言いながら、雄二は記憶の中にある祖父の死に顔を、目の前の死に顔に重ね合わせている。

「その時は、じいちゃんが他人に暴力でも振るわれたような気がしたんだけどさ、でも今考えてみると、死んでもうすぐ焼かれるんだったら、顔なんてある意味どうでもいいのかなって思えるんだよね…」

「……それは西田先生が小林にとって他人だからじゃないの?」

「……それもあると思うんだけど、それだけじゃないっていうか…」

「……ふぅん、そうなんだ」

 雄二は飛鳥にそう言われて、ふいに自分の思っている事を洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られた。

「虚しくなる時ない?たとえ家族でも、お互いの事なんて本当は少しも理解できてなくて、自分の幸せなんて、どれだけ追い求めて最後は消えてなくなって何も分からなくなる……」

「……小林はちょっと考えすぎだよ。その時その時、少しでも幸せを感じれる事があれば、後は何とかなるんじゃないの?」

「でも、オレはゲイだし、人とは違うから、自分の事をどうしても考えるんだよ」

 そしてそう言ってみた後に、急速に焦る気持ちが沸いて、雄二は飛鳥から目をそらすと、蒼ざめた顔で棺をじっと見つめた。

 卒業まで間もないとはいえ、自分のセクシャリティーまで話すのは迂闊だった。こういう時、この場を一体どう取り繕ろって、次にどういう顔をすればいいのかまるで分からなかった。

 そしてそう考えている最中、突然、ふんわり、柔らかい感触が雄二の頭を包んだ。気づくと飛鳥が、雄二の頭を守るように抱き寄せていた。

 何が起きたか分からず雄二が固まっていると、飛鳥はそっと雄二から離れて、何も言わずに席に戻っていった。

 思っていた以上に長い間棺の前を占領してしまっていたらしく、不思議そうにこちらを見ている他の弔問客に気づいた雄二も慌ててそこから離れると、飛鳥達のいる最後列の方へと移動していった。

 読経が終わった後に、葬儀社の司会で弔電が読まれ、最後に親族の焼香が終わると、僧侶が鈴を鳴らしながらゆっくりとした動きで祭壇を離れ、参列客の間をすり抜けるように移動すると、会場を去っていった。

――今はただ、在りし日の姿に思いを馳せながら、ご冥福をお祈りし、別れの時を迎えたいと存じます……。

 そんなナレーションが終わると、教授の入った棺の中に真っ白な百合の花が所狭しと敷き詰められ、蓋が閉じられると、最後に遺族を代表して故人の弟が喪主として弔問客に挨拶を述べた。

 しばらくして出棺の時刻になると、棺は複数の人の手によって会場の外に運び出され、他の弔問客達が見守る中、霊柩車の中に丁寧に納められようとしていた。

 霊柩車は金色の塗装が施された宮型のもので、最近はあまり見かける事のなくなったそのタイプの車を、若い四人は特に珍しい思いで見つめている。

「……うわ、そういえば卒論どうしよう!」

 急に飛鳥がその事で大きな声を出して、周囲の弔問客が一斉に四人の方を見た。

「……学務課に相談すれば?……事情が事情だし、何とかしてくれるかもよ?」

 周りを気にしながら美雪が小声でそういうと、飛鳥はみるみるうちに憂鬱そうな顔になって、

「……えー。あたし、あそこのおばちゃん苦手なんだよなぁ」と小さな声で呟いた。

 長い溜息をついた後に飛鳥が空を見上げると、垂れこめる灰色の空の上で無数のカラスがぐるぐる旋回していて、「……何あれ。縁起わるっ」と呟くと、飛鳥はそのまま空に向かって手を合わせた。

「……飛鳥、何やってんの?」

 雄二がそう聞くと「ん?先生の成仏のため」と言いながら飛鳥は手を合わせ続けている。

「っつーかさ、たくさん人いるけど、先生と本当に仲良かった人ってどのくらいいるんだろう?」 

 青柳が他の弔問客の様子を見回しながらぽつりとそう言うと、美雪もしばらくまた周囲を見回してから「……私もよくわからないな」とそれに答えた。

 それから特に話す事もなくなって、しばらく四人共黙っていると、空から急に小雨がぱらぱらと降り始めて、短い時間ですぐに止んだ。

「今日、雨降るなんて言ってたっけ?」

 飛鳥が雄二にそう聞くと、雄二は空を見上げながら「……こんだけ曇ってるんだし、降ってもおかしくないんじゃない?」と答える。

「本降りになったらさ、先生が焼かれても煙が空まで上がらないね」

 飛鳥がまたそう言うと、今度は青柳がそれに反応して「最近は煙が出る所って少ないらしいよ」と答えた。

「……それよりさぁ、あの車いつ動くんだろう?」

 そう言って雄二が霊柩車の様子を見ると、どうやら棺が車の奥に上手く入ってゆかないらしく、葬儀社の人間が奥を覗いたり、後部ドアの入口の周辺を手で探ったりしながら四苦八苦しているようだった。

 その様子を見守っていた他の弔問客達も、まだ時間がかかりそうな事を見て取ると、携帯を取り出して何かを確認したり、小声で何かを囁き合ったりして時間を埋め始める。

「……なんかお腹すいたね。この後ご飯とか食べに行かない?」

 青柳は隙を見て美雪だけを誘うつもりでそう言ってみたが、何も知らない雄二がそれを隣で聞いていて、「この辺あんまりちゃんとした店なかったよ?」と言いながら、携帯で飲食店を探し始めてしまった。

「……あ。じゃあ、またコンビニでアイス買って食べる?」

 雄二の携帯を横から覗き込みながら飛鳥がそう冗談を言うと、「……買ってもどうせ食べないじゃん」と言いながら青柳が少しふてくされた顔でぶつぶつ言い始める。

「ほら、思い出って大事じゃん?みんなで思いで作ろうよ?」

 飛鳥が青柳の真似をしながらからかい始めると、青柳が悔しそうな顔で地団駄を踏む仕草をして、それを隣で見ていた美雪が我慢できずにくすくす笑い出した。

「……いやいや。ちょっと。さすがにみんなふざけすぎでしょ」

 雄二が苦笑いしながらそう注意すると、突然長いクラクションが鳴らされて、棺を無事収めた霊柩車がゆっくり動き始めた。

 ドライバーは、運転席からちらりと弔問客の方を見やると、また何事もなかったかのように正面に視線を戻して、ペダルにゆっくり力を加える。

 そして一斉に合掌する弔問客達に見守られながら、霊柩車の上で羽を広げている装飾の鳳凰は鈍い色の光を放ち、葬儀場を出てそのまま環状線の流れに乗ると、まるで水平飛行でもするようにスピードを上げて、やがてはあっという間に見えなくなっていったのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?