正体見たり

2010年7月のある日、M市は局地的な豪雨に見舞われた。
雨粒がばちゃばちゃと容赦なく振り付け、空と大地を繋がんばかりであった。
我が家の駐車場にもあっという間に水が湛えられ、夏の乾いた風に運ばれてきた土ぼこりを洗い流していった。片隅で傘を差しながらしゃがみ込み、雨粒が跳ねる様をじっと見つめる人影があった。たばこドラゴン、14歳である。

駅前のCDショップに凛として時雨の新譜を買いに行こうと意気込んで家を出たものの、バスを待っている間に降り出した雨の勢いに興を削がれ、すごすごと家まで戻ってきたところであった。このまま大人しく家に入るのも何かに負けた気がして、とにかく目の前に騒々しく落ちては跳ねる雨粒を見つめる中で他のものを得ようとしていたような気がする。

そこへもう一つ傘を差した人影が現れた。「昼ご飯できたって」と声をかけてきた。我が兄、16歳である。

当時の我々は長きにわたる冷戦状態にあった。というか、連れてきた彼女に対し俺が「え、どこが好きなんすか?」「面白い話してますか?」と面倒な絡み方をしてしまったことをきっかけに兄は殆ど口を聞いてくれなくなっていた。それでも家族から言伝を頼まれれば腹を立てている弟の所にのこのこと出向いてくるくらいには人の良いやつでもあった。

わかった、もうすぐ戻ると返し、家に引き返す兄の背中を見送った。
素直に謝れないまま既に数週間が経っていた。思春期の男は謝ったら死んでしまうので仕方ない。

謝りたかったのか、構ってほしかったのか、想像に任せる。
ともかく俺は足元を流れる雨水を傘で掬い、バッティングの要領で兄に向かって放った。水の塊は見事な放物線を描いて兄に命中した。

振り返った兄の表情は覚えていない。
ともかく、そこから我々兄弟は驟雨の最中で大いに取っ組み合い、泥まみれになって祖母が作った昼食のチャーハンにありついた。

俺はどちらかといえば兄弟愛なんていうものは存在しないという論派に与している。姿かたちが似ていようと、幼稚園から大学まで同じ場所へ通っていようと、同じ屋根の下で食卓を囲んでいようと、海よりも深く山よりも高い隔たりが存在する。
好きな音楽も、読んでいる本も、付き合う友達の種類も違う。同じ道を通っているようでまるで異なる物を拾って歩く。

世間一般に言う兄弟愛という概念は、兄弟がいない人の無根拠な憧憬によってこそ形作られているのではなかろうか。
飛べない人間が鳥の物語を書くように、想像は現実を飛び越えてゆく。
言ってしまえば、幽霊の正体見たり枯れ尾花 というようなものだ。

先日、兄が入籍した。お相手は愉快な人だ。
山奥の料亭で両家顔合わせがあった。兄はつつがなく会を進行させようと頑張っていた。今日は皆さまリラックスして楽しんでくださいと語る顔があまりにも強張っていて、耐えきれず「お前がな」と半笑いでつっこんでしまった。
帰りのマイクロバスが回されるまでの間、庭園に備え付けられている灰皿の前で煙草を吸っていた。その日もにわか雨が降った。山中に響く遠雷を聞きながら、13年前の取っ組み合いを思い出していた。

あの日に至るまでも、あの日から今日に至るまでも、本当に色々なことがあった。それでもひとまず、我が兄のハレの日に立ち合えたのは僥倖である。
そう思った気持ちだけは枯れ尾花ではない。と言えないこともないのかもしれないという念が心の片隅にあることを否定するのが野暮であるということを思ってやらんでもない。

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