炎の涯に
11月も半ばになる。潤いを孕んだ秋風が過ぎゆき、そろそろ乾いた寒さが鼻腔に届くようになってきた。東京で生活していてもそれは例外ではない。
この時期になってくると持病のアトピー性皮膚炎が顔をのぞかせてくる。
肌の弱い母親の家系の影響で、俺も生まれつき肌の弱い子どもであった。
昔はちょっとした環境の変化ですぐに全身に反応が出ていた。
肘やひざ裏に違和感を覚えるやいなや、まさに燃え上がるかのような勢いで炎症が広がる。掻いても掻いても深層に届いている感覚はなく、体の内から滲みだしてくるかゆみは幼い俺にとって定期的に顔を見せる悪魔のような存在であった。一番タチが悪いのは、これが常に起こっているわけではなく鎮静と亢奮を不定期に繰り返すところだ。
家族で箱根に旅行に行った夜、就寝中に反応が出てしまったことがある。
それまで小康状態だったことが油断を誘い、運悪く薬を持ってくるのを忘れてしまっていたので、ひとしきり全身をかきむしったあと(そうせずにはいられないのだ)寝ている家族を起こさないように冷水を浴び、腕をつねったり嚙んだりすることでかゆみを痛みで上書きして乗り越えようとしていた。
物音で起こしてしまった母は大層悲しい目をしていた。当人としては一番の解決策だったのだが、我が子が目の前で自傷行為に及んでいるのを見るのはつらかろう。だがいくら目の前で悲しもうと、あえてこういう言い方をするが、何の足しにもならない。
病魔に侵されている瞬間、医療従事者でもない他人にできることなど何もない。
北原先生のところへは物心がつく前から通っていた。
子どもを子ども扱いしないタイプの医者で、当時5‐6歳の俺を前に「君の病気は一生治らないから、付き合い方を覚えていくしかないんだよ」と言い放つほどであった。文字面にすると粗暴に見えるが、実際これはアトピー性皮膚炎の本質であり、俺は北原先生のそういうクレバーな物言いが好きだった。
端的に言い切ってくれたおかげでかなり早い段階から諦めがついていたので、どれだけ症状がキツかろうと、はたまた治療のための軟膏でベタベタになった布団で起きようと、そこまで気に病むことはなかった。
18歳を迎える頃、亢奮と沈静の間隔は極めて長くなっていた。ステロイド軟膏のレベルも徐々に引き下がり、幼少期は2週に1回だった皮膚科の健診は3か月に1回になり、半年に1回になった。診察室で北原先生と話す時間も当然だが少なくなった。良くなってるのは嬉しいんですけど、なんか寂しいっすね。と言ったら、「僕の顔を見ないほうがいいに決まってるじゃない」と返された。医者の鉄板トークなのかもしれないと思わされるほどのテンポ感だった。
話は冒頭に戻る。
幼少期に受けた宣告通り、アトピー性皮膚炎に完治はない。
今でも季節の変わり目には調子が悪くなる。良くも悪くも北原先生との縁は切れていない。
北原先生は幾分年をとられ、黒と白が入り交じっていた頭は見事なロマンスグレーに染まっている。
「そろそろ乾燥するからね、軟膏多めに出しておこうか」
「今は弱いやつで大丈夫だと思うよ」
俺の診察はこのように的確な判断のもと2-3分程度で終わる。
はずだったのが、この前は「君ももう27か。」と急に言葉をかけられた。
「昔から通って、随分よくなったもんだ」
「治験もよくやってくれてたんだよ、実は」
カルテに何かを書きながら、珍しく饒舌な北原先生が続ける。
治験の話は初耳だった。どうやら、母親はどうにか俺のアトピーの根本治療に至るものがないかという一心で新薬の治験を受けさせていたらしい。
道理で初採血の記憶が皮膚科なわけである。そしてその針のあまりの太さに大いに涙ぐんだ記憶もある。
「じゃあ、自分がこういう体質に生まれたこともちょっとは意味があったんですかね」
「それに意味があるかは僕が言えることじゃないけど」
先生は一瞬だけボールペンを動かす手を止めた。
「君の頑張りが他の子どもの助けになった、かもしれない、というわけだね。」
先生はこちらを一瞥もせずカルテを書き終えた。
アトピー性皮膚炎に完治はない。
間隔は長くなれど、沈静と亢奮のループから俺が抜け出すことはない。
この先も軟膏や飲み薬の世話になりながら、環境と肌の相性を気にしながら生きる。それは俺だけでなく、すべてのアトピー性皮膚炎患者に共通する生き方だ。
そして、当事者以外にできることはない。
ただしその涯に、あるいはその火中に、誰かの助けになれたかもしれない可能性の欠片があるということは存外気分が良いのであった。
箱根で、いつもの診察室で、我が母が傍らから俺に向けていた眼差しの意味が少しだけわかったような気がした。
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