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こいのぼりの好きなもの探り11 「大豆田とわ子と三人の元夫」と坂元裕二 ※ネタバレを含みます

 先週に引き続き、大豆田とわ子と三人の元夫について。なんと8月からNetflixでも配信がスタートするようです。はやい!テレビの録画容量の三分の一を占めていたこのドラマ。削除したがる同居人とバトルすることもなくなります。ありがたい。 最初に「大豆田とわ子と三人の元夫」という題名を見たのは、ちょうど同ドラマの脚本家でもある坂元裕二さんが脚本をつとめた映画「花束みたいな恋をした」をみて、少し経った2月後半あたり。確か坂元さんがインスタグラムで連ドラをやるって告知したんです。その時にはメインのキャストも決まっていて。予告だけだと恋愛ものっぽい。でも恋愛だけに焦点を当てたものにはならないんだろうな、そうだといいなという期待がありました。膨らんだ期待は裏切られることなく、予想通りにならない展開に驚き、泣いたり笑ったりしていました。目を閉じてこのドラマのことを考えるとき、思い浮かぶのは場面や台詞というよりも人です。

 坂元裕二作品の、その中でも特段「大豆田とわ子と三人の元夫」の好きなところは、登場人物達が同じ世界にいると思わせてくれるところ。

 坂元さんの良いなと思うところをうまく言葉にできずにいたのですが、この間ヘッセ「デーミアン」(常木実訳)で「作家達は小説を描くとき、まるで自分が神であって、ある人間の歴史をすみずみまで見わたし、理解できるかのように、そしていかにも神が神自身に語り聞かせでもするかのような、そういう態度をとるのが常である」という文を読んだ時にピンとくるものがありました。私は登場人物達、あるいは起こる事象の全てを理解しているかのように描く作家さんによって生み出される作品のうち、特段そのことがダイレクトに伝わってくる作品に違和感を感じてしまう。その違和感は現実との乖離から生まれるものだと思っています。現実を全て把握している人間など(おそらく)いないのに、作家さんや脚本家さんが「全てを知っている神の視点」を持って描いてしまうと、その思想や気立てが台詞や情景を通して物語の各所に滲み出てくる。素人ながらに坂本さんは、神の視点を持ち合わせていなそうだな、そこが好きなんだと思ったのです。以前まで、坂元さんの脚本ってどんな感じなの?と聞かれた時には「登場人物に意思決定を委ねている感じ」と答えていました。でも今は「元から存在する人間の生活の一部を切り取っている感じ」という表現の方が近い気がします。意思決定を委ねる権利を作者が握っているとすら、思っていなそうだなと思ったからです。笑 その感覚を俳優さんや演出・監督さんも理解しているし、共鳴している。だからこそ登場人物一人一人の日常がそこにあるように感じることができる作品が生まれているのかもしれない。そう考察しました。

 私は坂元作品が大好きです。どの物語も胸ポケットに忍ばせておいて、辛くなると引っ張り出しています。きっと今もとわ子がどこかにいて、元夫たちとああだこうだ言いながら、外れた網戸を直している。今も「スイッチ」の円がどこかにいて、鳩と格闘しながらも、誰かの不幸はいつか自分に起こり得る不幸だと、悪事に牙を向いている。今も「カルテット」の4人がどこかにいて、スーパーで演奏したり、ゴミ出しで揉めたりしている。そう思えるだけで、なんだか安心して眠ることができます。不思議ですね。笑 坂元さんの作品について話すと、永遠に止まらないというか、次から次へと好きなところが見つかるので、どこかで区切りをつけたいと思います。

(写真は内容とは全く関係ありません。先日2年ぶりに食べることができた、大好きなまぜそばです。)

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