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タバブックスの本棚から05ー視線

映画でも漫画でも雑誌でも、性的に脱がされているのはいつも女性だった。

榊英雄の文春の報道を見てから読まなければと思った『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』。そこに収録されている「女の人の体が好き」というエッセイのなかで、著者の小川たまかさんは、自身が男性の体を見たいもの・見ていいものだと思えない一方で、女性の体は見たいと思うのはなぜなのかについて、いくつかの仮説を立てて考察している。

私が気になったのは、仮説その3「男性の裸体より女性の裸体の方がごく自然にそこにあったから」というものだ。彼女はこう書いている。

『性的な視点での体』という意味で、女性の裸体には慣れていても、男性の裸体には慣れていない。だからポーズをとっている男性のヘアヌードを見るのは恥ずかしくて、女性の裸体は積極的に性的な目線で見てしまう、のかもしれない。


この文章を読んで、私はmale gaze(男性の視線)ということばを思い出した。

1975年、フェミニズム映画理論の先駆者ローラ・マルヴィは論文「視覚的快楽と物語映画」のなかで、古典的ハリウッド映画は「見る男性」と「見られる女性」という非対称な構造に支えられていることを指摘した。
映画に登場する女性は、シスヘテロ男性の「見る」快楽を満たす存在として、彼の窃視症的なファンタジーを満たす存在としてobjectified(客体化=モノ化)され、displayed(陳列)され、to-be-looked-at-ness(見られるという位置づけ)を与えられている。

小川さんが「『性的な視点での体』という意味で、女性の裸体には慣れていても、男性の裸体には慣れていない」と感じたのは、客体化されたヒロインを見る主体としてのヘテロ男性の視線=male gazeに、観客の女性も同一化しているからではないだろうか。ヘテロ男性のファンタジーを充足させるモノとして表象される(裸体の)女性の姿を、女性も見慣れているからではないだろうか。


男性が「見る(あるいは撮る)」という能動的な位置を占め、女性が「見られる(あるいは撮られる)」という受動的な位置に置かれる傾向があるのは、昔のハリウッド映画に限ったことではない。
女性のヌードをモチーフとして多用してきた西洋絵画の伝統も、「カメラマン(男)」ということばで象徴される男性中心的な写真の伝統も、今の日本の映画界だって同じような構造に支えられている。
Japanese Film Projectの調査によると、2000年から2020年までに劇場公開された興行収入10億円以上の実写邦画のうち、女性監督作品の割合はたった3.1%だった。「見る(あるいは撮る)」立場にあるのは、いまだ圧倒的に男性ということだ。


小川さんの『「ほとんどない」ことにされている側から見た社会の話を。』の、もう一つ別のエッセイ「美人とセクハラ」の中で、こんな話が登場する。

モデルが一番、人間扱いされない。これは、「美人は得」という世間の常識と真逆だと思う。……美を売りにする(と思われている)職業についた途端、性を売り物にしていると思われる。もっと言えば、男性の相手をするのが当然という視線に晒される。単にその職業のプロであるというだけなのに、「玄人の女性」かのようにみられる。
いきなり愛人交渉をされたり、性的な関心をあからさまに口に出されたりすることは、「モテ」ではない。現に彼女は「人間扱い」されていなかったと感じている。まるで売り出している商品を見るような扱いだったからだ。

「見られる」職業であるモデルの女性が、性的な欲望を満たす「モノ」としてまなざされることと、male gazeは無関係ではないはずだ。「見られる」という受動的な位置に彼女を固定し、シスヘテロ男性の幻想を叶える「商品」として陳列するのは、非対称なmale gazeの構造そのものだ。


またハリウッドの権力者ハーヴェイ・ワインスタインの性暴力に対して、2017年に俳優の女性アリッサ・ミラノが呼びかけた#metooについて、小川さんはこのように書く。


私は「#metoo」が始まったとき、有名スターが「自分も性暴力の被害者だ」と声をあげることに大きな意味があるという一面しか理解していなかった。でも恐らく、それ以上に、彼女・彼らが抑圧をはねのけたことに意味があるのだと今は思っている。抑圧とはつまり、「お前らは被害者ぶったりしないよな。そういう商売なんだから」の圧。


「そういう商売」だから、「見られる」女性だから、ヘテロ男性の欲望の客体だから、性的嫌がらせや性暴力を受けても「そういうもの」だとされてきたのではないだろうか。それを許してきた構造の根本には、欲望の主体であるヘテロ男性が、女性を欲望の対象としてまなざすmale gazeがあるのではないか。

この本を読みながら、ずっとそのようなことを考えていた。

female gazeが3.1%しかない日本の映画界。male gazeが支配的な業界。

女性が受けた性虐待の経験さえも、女性を性的客体としてまなざす男性監督、そのなかでも自ら何人もの俳優の女性に対する性暴力の加害者だった男性監督によって表象され、エンタメ化されるというグロテスクさ。

そんな映画は見たくない。そんな映画と同じ視線で、女性をまなざしたくない。


(げじま)


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