見出し画像

ADOのライブってどうかな?9月17日@横浜アリーナ【還暦おじの徒然ライブ記】

ADOがツアー「マーズ」の千秋楽の横浜アリーナで、国立競技場でワンマン演るって発表した時、ネットでは賛否両論巻き起こったが、私は否の意見をわざわざネットで公開する人の気持ちがわからない。思うのは自由。でもそれを公開することは誰の得にもならないと思う。全く見ず知らずの人の共感を求めているのか。共感してもらって何が得られるのか、良くわからない。

実はかく言う私も、ADOのライブには懐疑的なおっさんのひとりだったのだが、去年のツアー、カムパネルラの、インドネシアの影絵のように踊るADOの映像を観て、ちょっと観てみたいと思ってしまったことと、今回横浜に来るし、ちょっとレア感もあるし、歌が上手いのは間違いないし、という理由で、その「マーズ」の千秋楽に参戦したのだった。

インドネシアの影絵 ワヤン クリッ

今回批判の的になっているのは、ADOが顔出ししないこと。本当に本人が歌っているのかわからないじゃないか。ステージに立っているのだって、本人じゃないかもしれないじゃないか。ライブって、アーティストの表情なんかも共有して、初めて成立するものなんじゃないか。

その指摘、よくわかる。共感はする。当たり前の感覚だと思う。

でも、実際にライブに参戦して、これらの指摘には全く意味がないことがわかった。
それらも全部含めてのADOなのだ。
ADOはほぼフィクションなのだ。

幾度となくメディアで流れ耳に慣れた曲が、圧倒的歌唱力で歌われている。ステージの上では檻の中でシルエットが踊っている。
バックスクリーンには、ペルソナ4のオープニングを彷彿とさせるような映像が流れ、観客を非日常の世界へと誘う。


以前、SEKAI NO OWARIのライブが非日常の極み的な記事を書いたが、ADOのライブはそれを上回った。

目に見えているものが実在するのか怪しくなる。そんな、姑獲鳥の夏の関口のような感覚。


もうそれがADO本人なのかどうかとか、どうでも良くなる。
あそこで動いている影が、流れている曲が、歌声が、映像が、もはや横浜アリーナ自体がADOなのだ。

ああ、どうも上手く伝えられていない気がする・・・。

そんなフィクションの世界でも、MCの時間はリアルを感じることが出来る。
ただこれも、MCはアテレコだと疑うことも出来る。
でもそんなことに意味はない。ステージ上のシルエットが話していようがそうでなかろうが、20歳のADOが話していることに違いはない。
ツアータイトル「マーズ」の由来について一生懸命に話すその言葉は、決してフィクションではなかった。

さらにライブの後半、ADO自身がバズーカを持って、観客にバズーカでプレゼントを投げ渡す企画があった。バズーカを持つとマイクが持てないので、マイク無しの生声で3、2、1の掛け声をかけると言う。静かにしろー!と言うADOの掛け声で会場は静まり返る。
3、2、1。
確かに聴こえた。
あーADOって実在する、と思わせた。まぁ実在するんだろうが。

結局何が言いたいのかと言うと、あの言葉数の多い曲を歌詞を飛ばさずにほぼ噛まずに歌う、「がなり」も多いのに最後まで疲れない喉の強さ、広い音域、飛び跳ねるメロディをカバーする正確な歌唱力、スタイルの良さを窺わせるシルエットも含めて、一級のエンターテインメントだったということだ。

顔出し無しがどうしても許せないのでなければ、ADOのライブ、一回観てみては?
フィクションの中にも人間ADOを感じてしまって、ADOのFC「ドキドキ秘密基地」に入ってしまうかも。
私のように・・・。

会場に設置展示された
ADOのドキドキ秘密基地?
クローゼットの中で歌っていたそうな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?