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私の"信者"たる姿勢を考え直してみる


はじめに

旧統一教会の元信者と名乗る方々が連日テレビ報道で様々な証言をされています。

本当もあれば誇張して発言しているものもあるでしょうし、事実がどうでも証言をする本人にとってどう捉えたかが、その人にとっての真実なのだと思います。連日の報道で出てくる様々な声が自分に対して、少なからずいい影響は与えていないことを感じる日々です。

そこで、改めて私自身の信仰を持つ信者としてのスタンスって何だったっけ?ということを自分に向けた整理を込めて書かせていただきたいと思います。

学生の時に尊敬した僧侶の姿勢

私は中学生の時に浄土宗を中心とした仏教系の私立中学校に通っていました。

浄土宗の開祖は法然上人ですが、私が通っていた頃、週に1コマだけ「宗教」の授業があり、そこでは主に法然上人の生涯や浄土宗のことを学びました。法然上人の人生を一通り学ぶのですが、私が中学生の頃に素直に感動し、尊敬の念を抱いたことがあります。

それは、法然上人は比叡山をおりて、民衆にお念仏の生活を説かれたことです。「同称十念(南無阿弥陀仏と10回唱える)」という手段を示され、お念仏を唱えることの大切さを広めていかれます。私も学生の頃、毎週月曜日の朝礼で、全校生徒が手を合わせ、同称十念を唱えて出発していました。また、「一枚起請文」という上人の遺言がまとめられたものがあるのですが、その暗唱が必要で、苦戦したことを覚えています。

法然上人は比叡山で僧侶として歩む人生もありましたが、それよりも人々の救いのための行動を起こしました。今思えば、当時の識字率などを考えると、仏教の経典などを学び、仏について学べる民衆がどれほどいたか?ということを考えると、「同称十念」という手段は、人々にとって、どれほどの救いであり、ありがたい教えであるのだろうと思いました。

私の信仰に対する捉え方

もちろん、10回唱えて極楽浄土に行けるなんて馬鹿げていると思う人もいたかもしれません。しかし、私が思うに、10回唱えたら極楽浄土に行けるかどうかの可能性の話をしているのではなく、毎日「南無阿弥陀仏」と唱え続ける、人々の「信じる心」を大切にされたのだと思っています。

そして、私にとっての「信仰」とは、持ち続ける限り、それを鍛え深めるために「試されるもの」だと捉えています。

今、メディアや国会での議論などをみながら、旧統一教会の行為や実体ベースでの議論ではなく、教義そのものや、ひいては信仰を持つ信者の内心を平気でえぐってくる発言をいとも簡単にしています。

また、旧統一教会には分派というものがいくつかあります。その方々の主張を見聞きするたびに、率直に「すごい体力だな」と思っています。旧統一教会の教義を学び、今まで頑張ってこられただろうに、やはり違うと思って、別の道を選択する。それもある種の信仰心ゆえなのかもしれませんが、ここでも信仰とはなんぞやということが、自分の中に悶々とする時があります。

心に残っている信心のあり方

旧統一教会を取り巻く昨今の情勢や、何年も前からある分派活動などに対して、悶々とする気持ちになると読み返す1冊の本があります。

それは、「歎異抄(たんにしょう)」という本です。これは、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書で、浄土真宗の開祖である親鸞を師事した唯円という人物が作者とされる書物です。

この書物の第2章に「地獄は一定すみかぞかし」という内容があります。第2章の全文は、以下にわかりやすくまとめられているものを見つけましたので参考にしていただければと思います。

特に私は、以下の部分を心に留めています。

たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という後悔も候わめ。いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞何の後悔もないのだ。なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に堕ちたのであれば、だまされたという後悔もあろう。だが、微塵の善もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。)

歎異抄第2章 地獄は一定すみかぞかし

ここまで言い切れるのは本当にすごいと思います。しかし、信心の究極とはこういうことなのであろうと思わされるのです。

元信者や分派で活動される方々にも、それぞれの信念と主張があります。その方々の熱心なお気持ちは、否定されていいものではないと思っていますし、元信者と名乗る方がメディアを介して主張されることに対しても、何か信仰を持つ者、持たざる者で色メガネをつけて見るべきではないと感じます。

なぜなら、信仰というものは、信じ仰ぐことであり、誰かと比べたり、指摘しあったりするものではなく、また論争の火種になっていいものでもないと思っているからです。神や仏といった、自分が信じる尊く偉大な存在と「私」との間に持つつながりであり、他者と比べて大小・高低を評価するものではありません。

私の教祖に対する捉え方と、噂に対する信仰への影響

私は、何か偉大な存在をただ仰ぎみてひれ伏す存在ではなく、親子であるとされたイエス様と、その親の喜怒哀楽の情の世界を教えてくださる文鮮明先生と韓鶴子総裁を尊敬しています。

創始者である文鮮明先生に対しては、様々な噂や厳しいご指摘もありますが、どれもが起こった事実に対して、ご覧になった方々がとらえた真実か、意図的な噂も混ざっているようなので、どの情報を見ても、私が信仰をやめるといった情報には、今のところなり得ていません。

最近、文鮮明先生の発言を反日思想と結びつけて、報道されていましたが、この辺りは、文先生が通過された時代的背景などを踏まえて見ないと、全て同時代の価値観で見た場合、腑に落ちない言い方や、過激だと感じるものもあります。

この辺りは、信頼してやまない先輩方が整理されている「真の父母様宣布文サイト」に説明が掲載されていました。

全ての信者とは言いませんが、やはり信仰を持っている信者は、その教祖が、世間を恐怖に陥れる大犯罪を犯したとかではない限り、ある程度の噂や問題というものに、あまり影響はされない気がしています。

むしろ、世間からこれだけ厳しい目を向けられているからこそ、自分が信じる「真の父母」と呼ぶその存在は、本当はどういった存在なのか?が知りたくなり、逆に学びを深め信心深くなる要素となり得ているのではとすら推測します。

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。

(弥陀の本願まことだから、その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろうはずがないではないか。法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。)

歎異抄第2章 地獄は一定すみかぞかし

こう言い切れるまでには、まだまだ学びの途上であり、世間の旧統一教会を取り囲む様々なノイズをかき分けて、文鮮明先生が本当に伝えたかったこと、ご存命の韓鶴子総裁が、私たちに気付いてほしいこと。それが一体なんであるのか。自分の中でさらに学びを深め、これからも統一原理を学び続け、信心深くなれるように精進したいと思います。

ありがとうございました。

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