自分にもまわりにも期待しないことについて
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生きる、生活するというとまあ日々いろいろとあるわけだけれど、それでも昔に比べたらだいぶ生きやすくなってきたというのか、自分としては心地よく過ごせる時間が増えてきたように思う。
それは多分だけれど「自分にもそして他人というか、まわりにも期待しなくなった」ということが、大きいかもしれない。
僕がそういう、何かに対して期待するということを手放していこう、やめようと感じるようになったのは、適応障害になった時だったんじゃないかと思う。
あの頃はどう見てもキャパオーバーをしていたというのか、自分には向いていないとわかっている仕事をこなしながら、しかもやることは仕事だけでなくて他の業務も増えているという、僕の人生でも1番に大変な時期だった。
僕が働いていたところの職場の環境は、今はどうなっているのかはわからないけれど、僕がいた頃はたまたまそういうタイミングだったのか、月曜日から金曜日まで、朝早くに行って夜も残って作業してもやることはたくさんあって、土日も仕事のことが頭にいつもあった。
だから適応障害になった、ある日の月曜日の朝に、布団から出たくても出られない、体がいうことをきかない、自分の頭と体が離れ離れになってしまったような感覚を初めて経験して「ああ、自分は来るところまで来てしまったのだ」ということにようやく気づいた。
今思うと、なんでそこまでして仕事をしていたのか?と落ち着いて考えられるのだけれど、その時はそういう暇もなかっただろうし「みんなそうしているから」とか「お金を稼がないといけないから」と思っていたというのか、思い込んでいた。
あと、みんなができるのだから、自分にもできるというなんだろう、それは期待というのかわからないけれど、「このくらいやって普通」というところにしがみついていたというのか、みんなと同じレールから外れたくないみたいな気持ちもあったんじゃないかと思う。
それにもしかしたら誰かが、なんとかしてくれるんじゃないか、助けてくれるんじゃないかみたいな、まあなんの根拠もない期待というのか、この環境はいつかよくなっていくんじゃないか、なっていって欲しいという気持ちもあった。
けれど、そんなことはなくて自分を救ってくれたのは、これ以上はマズいと判断したほかならない自分の心と体だった。
自分ではどうにもならない、「強制終了」という形で仕事から離れることになり、ただただ何にもすることなく、部屋でぼんやりと過ごす時間がしばらく続いた。
その頃は精神的にはだいぶボロボロで、家の外に出るのも怖かったし、もちろん人にも会いたくなかったし、できるだけひとりでいたかった。
そのポッカリとできた時間で、自分は初めて自分とじっくりと向き合って、そのうち「自分にもまわりにも期待することはやめよう、手放していこう」と思うようになった。
それはなんだろう、ネガティブというよりはポジティブな気持ちというのか、いい意味で「あきらめた」とも言えるのかもしれないけれど、変に期待するからガッカリするし、さらにいくと誰かの、あるいは何かのせいにしたりすることになる。
「他の人ができているのだから、自分にだってこのくらいできるはずだ」とか「誰かがなんとかしてくれる」みたいに思っていると、それがその期待通りにいかない時の精神的なダメージも大きい。
なので自分は自分のままで、無理しないで、自分に素直に生きていいし、これからはそうやって生きていこうと決めた。
だからなんというか、自分にもまわりにも変にガッカリすることが、今はほとんどない。
そもそも期待していないから、それは信じていないとはちょっと違うのだけれど、あるがままの自分で、できることもあるし、できないこともある自分を受け入れて、認めて生きていくということをちょっとずつやってみることでだいぶ生きることがラクになってきている。
そしてありがたいことに、ありのままの自分というのか、自然体な自分を受け入れてくれる人にもたくさん出会うことができてきているし、これはとてもとてもラッキーなことだと思っている。
なんというか、無理をして頑張って自分より大きい自分になろうとするよりも、時にはダメな自分すらも認めて、やりたくないことはやらないという行動をして自分の心に素直になった方がだいぶ生きやすいし、実際に生きやすい環境になってきているからなんとも不思議なものだけれど、いい意味で自分にもまわりにも期待することなく、その時の流れにまかせて自然体の自分で、その自分を受け入れてくれる場所で楽しく生きていきたい。
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