実家帰省で生活リズムが矯正されるの巻

どうも、ぺりかんです。しばらくご無沙汰しておりました。
この間、マガジン追加やフォローをしていただいたり、記事へのリアクションを多くいただいたりと、みなさんありがとうございます

ご無沙汰太郎

この1週間は際立って「いいね」等が多かったので、”もしかしてログインが滞ると機械に「noteのモチベーションが保てなくなったのか?」などと判断されて、「いいね」されるよう記事がピックアップされるなどして「いいね」が増えるような機制なのか…?”などと邪推してしまうなどしました(ありえないとはいえない。当然、利用者離れを防ぐためのあらゆる対策は講じられているだろう)

あと数日で戻りますが、このたび実家に帰省しています。
普段の食生活は非常に質素というか、簡単な食事で済ませてばかりなので、実家で美味しいごはんを食べられるのはこれ以上ない喜び。

卒論や、ゼミ生の期末レポート的なものの時期でもあるので、学生からの相談事項にいくつか対応するのですが、どうも実家だと自分のペースが作れない。食事の時間や買い物の時間には中断を余儀なくされるし、遊んで遊んで攻撃を放ってくる姪っ子もいるので、仕事の効率は70%減という感じ。でも、仕方ないというか、いずれ自分自身が家庭を持つような日が来たら、こうした環境でうまくやりくりしていくことになるんだろうな、などと考える。

考察って何を書けばいいのですか?

課題の相談を受けているなかで、そんな質問を受けました。
少しだけ、考える。答える内容は決まっているのだが、その伝え方を、考える。抽象的な画像・イメージの流動として頭の中に出来上がった形を、話の文脈や相手の理解について想像しながら、言葉にしていく。

考察は、きっと君が考えているよりも、ずっと自由なものだよ
もっとも伝えるべきポイントはここだろう。

(あくまで僕の分野の話だけれど)論考は、背景があって、問いがあって、論考の目的が明示されて、調査の方法があって、調べてきた事柄に関する記述があって、考察があって結論がある。それが基本的な流れだ。

その学生は、調査もしっかりしていて、調査した内容に関する記述も良く書けていた。それなのに考察と結論で何を書いていいかわからなくなってしまったという。

まず結論を見失った時に自分で疑うべきは、「問い」が明確かどうかだ。構造として、「問い」と「結論」は対応していなくちゃいけない。出発点とゴールとが繋がっていない迷路は誰もクリアできないように、この2つがまずは結びついていなければ、文章も途中で行き止まりに、路頭に迷ってしまうことになる。問いで挙げた疑問に、結論で答える。この1本道をくっきりと描かなければならない。

その学生も途中で「自分は何について考えていたんだっけ?」という状態になっていた模様で、やはり明確な「問い」が示されていなかった。問いを立てることはなかなか簡単な作業ではないが、学生はすでに調査もしているし、その成果も明確なので、自分がこれまで取り組んできた調査をよく思い出していけば、最初に自分の中でぼんやり抱いていたはずの問いを思い出すことができるだろう。そのぼんやりした問いを、もう少し厳密に、はっきりとした言葉で書けば、なんとかなるだろう。

考察。考察は、調査した内容や発見した事実を吟味し、そこから明らかになったことを記述すること、また、そこから発展しうるアイデアを掘り下げることを行う場所だ。

考察の書き方や、どんなことに力点を置いて書けばよいのかということについては、今回は紹介しない(また別の機会で書きましょう)。もっとも重要なポイントは先に書いた通り、「考察は自由だ」というところだ。

模範解答は用意されていない。点数化することもできない。
考察で試されているのは、「調査して判明した事実を踏まえてあなたは何を言うことができるか」というところなのである。
「自分はこんなことをここから考えたんだ!これでもくらえ!」
そのような気持ちで書いても許される個所でもある。

それが論理的であればあるほど、相手は「なるほど」と思うだろうし、
それが新規的であればあるほど、相手は面白がるだろう。

調査して発見された事実やデータは、あえて言えばあなたにとって「外在的」な存在だ。あなたの外側に存在し、あなたが観測した対象である(むろん私の分野ではそのようにして観察者を独立した主体とみなすこと、対象を客体として自らから切り離すことを志向するような知的操作は厳しく批判されるべきものであるのだが、その点は今は考えないことにする)

その、あなたにとって外部化された要素を、いちどあなたの思考へと、すなわちあなたの「内側」へと取り込んだ先に、再び外へと出されるもの。それが考察である。つまり、あなたにしか書けない考察というものがある。

調査して分かったこと。その具材をあなたがどのように味付けし、盛り付けし、できあがったその料理にどのような名前を付けるのか。考察にはそのような「わくわく」が詰まっている。それがデータに基づいていて、論理的で、説得的であればあるほど望ましいし、それが目指されるべきではあるけれど、面白い考察にはそのうえで多少の「飛躍」が必要なのだ。その「飛躍」のきっかけはあなたの中にしかない。自分ならこいつにカレー粉をかける!私ならこいつを蒸す!(ここでの「手法」は調査手法とはちょっと違う。その辺もまた書きましょう) 考察はその意味で、人の数だけある。

論理的な思考はトレーサブルであることが特徴であるがゆえ、誰が書いても同じゴールへと至る。それが再現性・客観性という名前の意味なのだが、それを踏まえたうえでちょっとはみ出すような、スリリングさもあってよいと思っている。昨日と全く同じ一日を過ごすことが不可能であるように、私たちの毎日にそもそも「再現性」などないのだから。

おっと、まだ書かなければならないことがあるが、姪っ子がやってきた。
ではまた。続きは書くかもしれないし、書かないかもしれない。




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