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人はインセンティブの奴隷である

わが家では毎朝起きると全員が体温を測る。私と配偶者は職場に、子どもは学校にと、それぞれ体温を報告しなければならないからだ。

私の職場について言えば、4月のある日、UI・UXの配慮が1ミリもないことで定評のあるわが社の勤怠管理システムに体温記入欄が出現した。

このシステム対応でD通K際J報S-ビスにいくら請求されたか等は定かではない。

はじめに:習慣化の難しさと現場猫

毎朝体温を測る。

だが時々忘れる。

習慣として定着させることは簡単ではない。たかが体温測定のようなことであっても。

D通K際J報S-ビスのシステム対応もむなしく、そこには「現場猫」のようなインシデント(下記参照)がつぎつぎと起きる。

(↑現場猫インシデント)

(注)現場猫とは、主にtwitter上で描かれる作者不詳の一連のコラージュ作品で、現場作業員の思考や行動を投影するゆるキャラとして人気上昇中である。

測り忘れの解消:ゲームの導入

ところで我が家では体温の測り忘れは先日、奇跡のように解消された。現場猫は消えた。

いったい何をしたのか?


息子と一緒に新しいゲームを考えたのである。

今日の体温、当てたらファミコン15分」と名付けられたこのゲーム。

あまりにも形而上的なネーミングで、読者が内容を想像することは困難だと思われるため、補足しよう。それは、体温を測る前、自ら体温を予測・宣言し、ぴたりと言い当てることができたら、私も息子も大好きなファミコン(8ビット)が15分プレイできるという、きわめて高等な遊戯である。

ゲームの導入翌日から、効果は劇的であった。わが子はベッドから体温計に直行するようになった。そして彼に促されみんながちゃんと測る。

こうして、現場猫インシデントはわが家から消えた。

(↑わが家から消えた現場猫インシデント)

情報非対称性の経済学

経済学では、何かの行動あるいは努力を引き出すために報酬やご褒美を与える手法を「インセンティブ(incentives)」と呼ぶ。

インセンティブの研究は、「情報非対称性の経済学」の発展と軌を同じくしている。情報非対称性の経済学を世に送り出したアカロフ、スティグリッツの両氏はノーベル経済学賞を受賞している。

情報の非対称性とは、一方の経済主体は情報を持つが、相手の経済主体はその情報を持たないことである。例えば企業経営者と株主の関係において、株主は経営者に報酬を払って経営活動を委託するが、株主は経営者ほど企業の経営実態と経営者の経営努力水準をよく知らない。

あるいは、経営者と従業員の関係において、経営者は従業員に報酬を払うが、従業員が本当に努力したかどうかに関して経営者は従業員自身ほどそれを知り得ない。

経済活動において、完全情報であることはむしろ少なく、2者の間で情報が非対称になっていることのほうが多い。

こうした場合、情報優位サイドは、情報を隠したり偽ることにより自己の利益を優先する行動をとりかねない。そのような行動は情報劣位サイドに損害を与え、社会的非効率を発生させる。深刻な状況では、取引そのものが取りやめられ、経済活動が停滞する。有名な例が「レモン市場」と呼ばれる中古市場だ。

情報の非対称性に生じる問題は主に二つの類型がある。一つは、努力水準が切り下がってしまう問題:モラル・ハザード(moral hazard)。もう一つは、劣悪な商品やプレイヤーが市場に残り、他のものを排除してしまう問題:逆選択(adverse selection)である。長いので説明は省略するが、現場猫はそれぞれの典型例を提示している。

(↑モラル・ハザードの例)

(↑逆選択の例)

インセンティブは「設計」の研究が進む

こうした問題を解決する方法が、インセンティブを与えること(incentivize)である。言い換えれば「アメとムチ」だ。これによって相手の行動をうまく誘導、すなわち情報劣位サイドは情報優位サイドから最大限の努力を引き出すことができるようになる。

適切なインセンティブが設計できれば、情報の非対称性に生じる問題が緩和され、社会は効率化される。このため、最適なインセンティブをどのように設計するかが極めて重要なのである。

経済学では、インセンティブ設計に関して、すでに膨大な研究がある。

例えば、株主は経営者をいかに企業価値最大化に向けて忠実に働かせられるか。そのインセンティブの一例がストック・オプションであるし、そもそもこれら全体が「コーポレート・ガバナンス」という一つの体系である。

あるいは、経営者は労働者をいかに全力で働かせられるか。これが労働契約であり給料や賃金設計だ。労使間交渉において「賞与を生活給だ」と位置付ける組合の言い分がなぜ通らないか、といえば、経営側にとって賞与はインセンティブの切り札だからだ。

ちなみにインセンティブについて、私の大学院の先生がこのような本を書いている。平易でわかりやすいのでおすすめ↓。

インセンティブは「設計」より「外し方」が問題

今のところ我が家では、「体温当てゲーム」がインセンティブとなり、現場猫の姿を見ない。つかの間の平和が訪れている。

だが、この状況は、未来永劫に続くだろうか?

いや、早晩、平和は瓦解するだろう。ふたたび現場猫の跋扈する堕落した世界に戻るだろう。

それはなぜか。わが息子が、ゲームに飽きる時が確実に来るという未来だ。

わが子は現在7歳。今は可愛いので万事OKだが、このまま20歳になっても30歳になっても毎日「体温当てたらファミコン15分」をし続けるとしたらそれは可愛いだろうか?それは平和な未来だろうか?

「習慣が大事だ」と人は言う。ランニングも筋トレも、習慣化すれば無理なく続けられるらしい。知らんけど。でも体温の計測ですらゲームの介入を必要とする、根気のないわが一族に、習慣化など夢のまた夢ではないか?

いま我が家に必要としているのは、インセンティブを設計する技術ではなく、インセンティブを外しても習慣を残せる技術だ。習慣化すること、とインセンティブを設計すること、はそもそもレイヤーが異なると私は考える。

インセンティブは「外し方」のほうが問題なのだ。

インセンティブを外すには?

インセンティブをどのようにして外すか。この問題は、重要なわりに経済学ではあまり検討されていないように思う。

快楽物質を求めてスイッチを押し続けるラットの動物実験を例に、脳内麻薬の報酬系の強力さについて、中野信子が信じられないスピードで大量の書籍を発刊し続けている。それはまるで中野信子自身が快楽物質を求めて出版し続ける動物実験の被験者ではないかと思うほどだ。

一方、快楽物質を求めて逮捕され続ける田代まさしが、どのようにしてその報酬系から離脱できるか、ということに関して書かれた本は筆者の知る限りない。そんな本がもしあれば、田代まさしは再犯しないのかもしれない。

害のある補助金、害のない補助金

例えば架空の町で、企業への補助金に関してこのような論争が起きたとしよう。

行政からの補助金を使って新事業を始めようとしたA社と、補助金に頼らずすでに同種のビジネスを軌道に乗せているB社。両社が確執し、A社に補助金を出そうとしていた行政も巻き込まれ、3つ巴の議論が起きた。こんなことはどこの町にもよくあることだ。

問題は、このような議論において、補助金は悪だ、補助金は町をダメにするという「性悪説」系の論調の声が大きくなりがちなことだ。得てして、まちづくり文脈で狂犬と呼ばれる木下某などはその理論的支柱となりやすい。

確かに木下某の主張には首肯する点がそれなりにある。実際、補助金は「作文のうまい人が通りやすい」という側面があり、本業であるビジネスの質の高さとは努力のベクトルが必ずしも一致しない、ということは否めない。

しかし一方、補助金はすべからく悪、と決めつけるのはいささか早計であって、質の良い補助金というものは現実に存在する

例えば2012年。アベノミクスが始まったばかりのわが国では「国内立地補助金」というおよそ3,000億円あまりの補助金が措置された。背後には、東日本大震災の後、為替レートは1ドル=80円台まで円高が進行し、ものづくりはもはや国内では不可能だ、と言われていた状況がある。それでも国内でものづくりを続けよう、という希望を持った企業は少しだけおり、彼らの努力を引き出したのだ。まさしくインセンティブの正しい使い方である。

インセンティブ支持者は、補助金が質の高い「努力」や「行動」を引き出す機能を重視する。一方、補助金性悪説は、補助金がむしろ努力水準の低いプレイヤーを繁栄させてしまうことに疑念の目を向けている。両者は例えていえば、月の表側に関心のある人と、裏側に関心がある人の論争のようであって、まるでかみ合っていないように一見思える。

サンデルーー市場による道徳の締め出し

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』は冒頭、子どもやセックスを売買することは倫理的に許されるのか、という、いかにも公共哲学な話から始まる。だが後半、同書は意外な展開を見せる。子どもやセックスなどの「実物資産」から、「買える権利」「もらえる権利」などのいわば「オプション資産」へと議論が移るのだ。

例えば、イスラエルの高校生を対象とした実験。
イスラエルでは、高校生が毎年、ある指定された「寄付の日」に、ガン研究とか障害児援助のための資金を得るために、家々をまわって寄付を募る。
実験は高校生を三つのグループに分けた。第一グループは、寄付の重要性を説く短いスピーチを聞かされるだけで送り出される。第二、第三グループも同じスピーチを聞かされるのだが、同時に、集めた金額に応じた金銭的報酬も出ると告げられる。それぞれ、1%、10%という歩合だった。
さて、どのグループが最も多くの寄付を集められるだろうか。

答えは、無報酬の第一グループだったのである。ついで10%の第三グループ、1%の第二グループとなる。第三グループが、第二グループより成績がよかったのは、当たり前に思える。第三グループの金銭的インセンティブの方が大きいからだ。だが、第三グループが第二グループに勝った同じ原因が効いているのであれば、第一グループが最下位なるはずだ。ところが、第一グループが最優秀だったのだ。それはなぜか?

金銭的な報酬を与えることで、高校生の善行の性質が根本的に変わった、とサンデルは説明する。高校生は、善い目的への使命感をもって寄付集めに取り組もうとしていた。だが、報酬を提供されたとたん、それは善行ではなく、自分のためのアルバイトに変質してしまったのだ。

このケースでは、公共的な善への使命感の方が、アルバイトの報酬よりも強く高校生を動機づけたのである。これこそ、「市場(金銭的インセンティブによって商品や賃労働にすること)による道徳(善なる目的への奉仕という行為の意味づけ)の締め出し」という現象である。

標準的な経済学の見解では、金銭的インセンティブを増やせば、供給も増える。この実験では、奉仕活動にアルバイト代を出せば、生徒たちはますます頑張る。
しかし現実には、市場化によって、行為の道徳的な性質そのものが損なわれることがある。経済学者は市場は道徳や価値観から中立だ、と考えるが、そうではない。これが、同書における最も重要な主張である。

人はインセンティブの奴隷である

先ほど、インセンティブをめぐる問題は、月の表側に関心のある人と、裏側に関心がある人のように、まるでかみ合っていないように思える、と述べた。しかしこれは、インセンティブはひとたび設計されると道徳を締め出し、行動を変質させてしまうという点で、やはり同じ月を見ている

補助金は一時的には努力水準の高い行動を引き出すが、それは一時的な効果にすぎず、やはりいつか腐敗するのだ。

その理由は、インセンティブは、その設計や弊害については多くが語られているが、その「引き際の技術」についての蓄積がほとんどないからだ、と私は考える。

ここまで、インセンティブの「引き際」について考えてきたが、サンデル教授まで出てくると、話は大きくなる一方だ。

だが、当初の問題の本質はもっと小さいところにあった。

なぜなら本論の関心はあくまで、うちの息子の体温測定ゲームの解消なのだ。その解消法さえ、まだないのである。

間違いなくいえることがあるとすれば、人はインセンティブの奴隷である、ということだ。

我々は、ひとたびインセンティブが仕掛けられた世界の中に入れられてしまうと、インセンティブのない純真な世界に素直に戻ることはできない、と私は思うのである。


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