虚構のリアリティ

はじめまして、tatataです。note初投稿になります。自分が思ったことを言葉にして残す場所が欲しいなと思い始めました。気が向いた時に書きたい文章を書ければ良いなと思っています。基本的に音楽、映画、スポーツの話題が多くなると思います。
以下の文章は以前私が誰に見せる意図もなく残したものですが、せっかくnoteを始めるんだからこれも投稿しようと思った次第です。
今後はこんな硬い文章あまり書かないかもしれません。

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「お父さんはね、お星さまになったのよ。」

いくら僕が幼少期に父を亡くしたからといって、僕が中学生になった今もなおこんなことを平気で言う母は僕を小ばかにしているのだろうか。それともひょっとして本当にお父さんが星になったとでも思っているのだろうか。まあそんなことはどうだっていい。だってお父さんは誰に何と言われようとお星さまになったのだから。


私が浪人していた予備校の現代文の講師の M 先生はよく授業中に、その授業で扱う問題文に関する雑談をよくしてくれた。その雑談は「雑談」と呼ぶのが果たしてふさわしいのかと疑わしいほどに示唆に富んでいて、我々生徒を強烈に引き込むようなものであった。
冒頭に示したストーリーも、うろ覚えではあるが、その「雑談」の一つである。M 先生の知り合いの母子は、子どもが幼いころに父を亡くしており、常々母親は子どもにそのようなことを言い聞かせていたようなのだ。そこで M 先生はその親子に望遠鏡をプレゼントしたそうだ。お星さまになったお父さんがいつでも見られるように、との思いを込めて。
「皆さん知っているかわかりませんが、人は死んでも星にはなりませんからね?」
師もまた生徒を小ばかにしたようにおどけて見せる。
「でもそんなことはあの親子にとってはどうでもいいことなんですね。私が言いたかったのは、ときに『虚構』というものが、いやときにというか我々の人生のかなりの部分は『虚構』によって支えられているということです。」
師はこのように話を締めくくった。この話は数ある M 先生の話の中でも特に鮮明に私の記憶に残っている。


私たちの言動一つで人の命をも危険にさらしてしまうような時代が来てしまったようである。悪意に満ちた鋭いナイフのような言葉は、たとえ本人に直接投げかけられなくても、たとえ電子の海に投げ込まれようとも、その海を渡った先にいる人間の、生身の人間の首を真綿のようにじわじわと絞めつける。それは確かに我々が胸に刻んでおかなくてはならない重要な真実である。それゆえ「SNS での誹謗中傷はやめよう」という声が上がるのは至極当然のことであり、私自身も気を付けなければならないと思う。
しかし、あの一連の騒動の本質は、果たしてそこにあるのだろうか。あの、台本のないリアリティーショーと銘打った番組が、本当に人間のありのままのリアルを映し出しているものだと思っていた人はそこまで多かったのであろうか。テレビ番組をはじめとしたエンタメというものは、脚本や演出などといった『虚構』に下支えされたものだということを認識している人はそこまで少なかったのであろうか。あの番組に関する様々な意見を聞くにつけ、「こんなのフィクションだから」とその人にしかその価値が分からない虚構を甘く見ている人ほど、皮肉にもフィクションをフィクションとして受け入れられていないように感じる。これをメディアリテラシーという分かりやすい言葉で片付けられるのかどうかはわからないが、少なくとも、あの親子に望遠鏡をプレゼントできる人がこの日本にそこまで多くいないことは、紛れもない事実のようだ。

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