動詞としてのLOVE
LOVEというのは感情(名詞)ではなく行動(動詞)で示すものだ。
今日はとても素敵な言葉と出逢いました。
古今東西の文学では、「愛」は動詞として使われている。 (七つの習慣/スティーブン・R・コヴィー)
今読んでいる七つの習慣という本にそのような一文あり、強く共感したので同じテーマで自分の言葉でも残したいと筆を取りました。
あくまで自分の考え方です。とても大きな定義でのLOVEです。
愛とは。
そこに愛があるとかないとかの問題ではなく、
自分が相手を理解する、思いやる、話を聞く、心を知る、嬉しいことや悲しいことを教えてもらう。
そういった行動こそが「愛する」ということだ思うのです。
心から相手を思いやる。
真摯に相手を見つめる。
相手の心を知る勇気。
そうして相手と接すると気付くことが一つあります。
相手が自分をどれほど愛してくれているか、ということです。
海よりも深い愛
「海よりも深い愛」などと言った比喩はたくさん見かけてきましたが、本当にそうだと思います。
自分が知覚することができない大きさの愛を、毎日毎日注がれている。
それはあまりにも温かくて安心できるから、もしかしたら茹でガエルのように気づかないこともあるかもしれない。(それは決してわざとではないし、誰にでもあること)
無くなって初めて、愛がない世界での冷たさを知ることもあるかもしれない。
また逆に「なにもない。愛されていない。愛されたこともない」と嘆いた心が、ずっと注がれていた愛に気づいて胸のあたりが優しく温まることもある。(それはどれだけ遠くの過去からの贈り物であったとしても、冷めることはないもの)
忘れないようにしたいこと
目の前の相手を尊く思うことを、忘れないようにしたい。
永遠に続くと錯覚してしまう、または「相手のことはよく分かっている」と過信して「今」を生きている今日の相手を知る行動を怠ってしまう。そういうことをしてしまうと、相手を尊く思うことを忘れてしまうのだと思う。
永遠なんて決してないし、一人の人間を「分かっている」と言えるほど「分かる」ことは無理なのではないだろうか。分かっていることは、相手が話してくれたことと、自分と同じ時間を共有してくれている間のことだけ。
相手が自分といないとき、どれだけ自分のことを大切に考えてくれているか。
待ち合わせをしたとき、どんな気持ちで着ていく服を選んでくれているか。
普段よりも朝早くに起きて、準備をしてくれているか。
自分が寝ているとき、相手がどんな表情で自分のことを見つめてくれているか。
たったこれだけのことでも、完全に分かることなんてあるわけないのだ。分かったふりをすることはできる。一部を知ることも想像することもできる。でも100%知覚することはできない。
だからこそ、相手を知ることを怠りたくない。
相手は自分が考えているより、その何倍も自分のことを考えて愛してくれているのだ。
人は鏡
対人関係は鏡です。
自分が深く相手を愛せば愛するほど、
相手がどれだけ自分を深く愛してくれているかを知ることができます。
自分が知ることを怠れば怠るほど、
相手がどれだけ自分を深く愛してくれているか見えなくなります。
最後に 心からの感謝と言葉を
分かってくれるだろう。
察してほしい。
どうして分かってくれないのだろう。
ついつい、やってしまうことだと思います。
それはきっと、
相手に自分の気持ちを伝えることを怠っているからだと思うのです。
とても勇気がいることですが、
自分の心の一番奥底にある本心を伝えることを忘れないようにしています。
本心とは、わがままを言うことはありません。
溜め込んでいた不満をぶつけるわけでもありません。
先ほど記述したことを思い出してください。
自分のことを、どれだけ相手の方が愛してくれているか、思い出して、言葉を紡げば
出てくる言葉は温かいものだけだと思うのです。
動詞としてのLOVE
素敵な言葉だと感じたので、ここに残します。
読んでくださってありがとうございました。
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