懐柔 第五回創元SF短篇賞日下三蔵賞受賞作品

 朝まだき、閨房の寝台の上に、化粧着を纏って、小さく踞っている女があった。
 白々明けである。光が、上下の開閉を別に出来る形の窓枠を縁取っていた。
 両掌で顔に蓋をして、女は泣き続けている。しかもそれは随分と古錆びた泣き方であった。悲哀は常態だった。
 「奥様、お茶が入りました」何刻か過ぎて、下女の徳江が入ってきた。両手には盆が握られていた。サモワアルから紅茶を入れたポットで、可憐な花模様が描かれていて、陶磁器製だった。男爵夫人からすると、急須でもないのだから、緑茶を入れたような口吻で云わないで貰いたいものであるというところであった。連邦の第四回プロフィンテルンに参加したこともある女だから、そういう意見を持っても仕方なかった。ところが当て付けのように、湯飲み茶碗がポットの横に置かれてあった。女は顔を顰めていた。細面で唇の色は薄かった。薹に朝化粧の努力は止めていたのであった。泣き出しそうになったところを徳江に見られたのだ。
 突発的な嘲りが下女の顔に浮かび、急いで消えたのを見て男爵夫人は顔を伏せた。こんな婢に笑われるなんてと。一瞬でもそう思って、女は自己嫌悪に陥ったのだ。嘗ての自分が云っていた事と、まるで正反対な事を云っていると感じたからだった。
 着換えが終わり、化粧も済むと、居間へと向かったが、そこには既に朝飯を済ませた鯉渕男爵が居て、新聞を読んでいた。
 「綾子、山谷議員が刺殺されたらしいよ」夫は云った。
 「何故私に云うんです」
 「嘗ての仲間じゃなかったのかね」ややその声に咎めるような響きがある。
 「そんな人、知りませんね」顎を僅かに上げて、男爵夫人は食堂に入っていった。
 料理女の里江が忙しく立ち働き始めた。朝食のスウプ入れを運んできた。
 パンの端を唇に当てて、男爵夫人は呆けたような顔つきをしたまま暫く黙っていた。あの人が死ぬなんて、しかもこうまで簡単に。ゆくりなくもその死に様の大略が浮かんできそうな塩梅だった。しかしそれは一種の超現実的な絵画のように形を為さずに暈けて消えた。蟀谷が痛み始めた。
 パンを皿に戻した後は、貝殻型になっている匙の先でスウプを掬ったまま、暫く静止させていた。
 「奥様、お体がお悪いのですか」徳江が不気味にも何時の間にか側に現れ、男爵夫人に囁きかけて、その顔色を蒼褪めさせた。徳江の冷ややかな容色は一層に美しく見え、男爵夫人の心根に不愉快な動揺を巻き起こさせた。
 「奥様は何時も食べるのは遅くていらっしゃいますの、常に深く考え事をしていらっしゃる方ですから、ほら」と里江はお察しなさいとでも云うように目配せで徳江に伝えた。
 「奥様は大変教養のある方で御座いますからね」徳江が冷ややかな顔付きのまま微笑んだ。 
義母が来た。食堂に入ってくる時に、正面に掲げられた立原翠軒を描いた油絵に誇らしげな一瞥をする。
 「耳ラッパを忘れてきてしまってね」と寝室に戻りたげな素振りをしていたが、男爵夫人と目が合うと、
 「あら、おはよう」と云ってきたので、
 「おはようございます」と散漫に返した。 義母は三文の徳を得た顔をしていた。いびる相手を見付けた、という事だろう。事実朝食を取っている時に、義母と顔を合わせたことは初めてだったのだから。
 これ程都合の良い時間は少ないのだった。晩餐時は息子が共に居るし、昼はそれぞれ別の場所に出掛けている事が多いのだった。
 「今日はお早いですね」男爵夫人は云う。
 「聞こえないわ、やっぱり駄目ね」義母はそう云って男爵夫人の隣の席に坐り、耳を頻りと近付けてきた。若干その耳朶が動いていた。放っておくと耳殻まで動き始める。それは何時もの義母の癖であった。だが、このような形で朝を迎えた日にやられると、何か無性に落ち着かない苛立ちを男爵夫人にもたらすのだった。
 一頭大柄な下女の瀧江が食器を下げに来た。徳江と料理を終えた里江は、隅の壁沿いに置かれた花瓶の横で何か話し込んでいた。
 「襟が……」
 「……をどういう風によせてきたの?」
 「夕方にいつも……」
 会話の断片だけが、男爵夫人の耳に入ってきた。
 「貴女の本、読ませて頂きましたわ」
 突然義母が大声を出したので、女は驚いて、匙を取り落とした。
 「非常にね、なんといいますか、獰猛な思想が述べられていると思いますの、些か赤色を帯びたね」顔の皺を震わせていた。嫌味を込めた積もりであるらしい、上気した頬と瞳の落ちつかなげな動きが、絶え間なく続いている。
 男爵夫人の顔色は更にまた悪くなった。
 「あれは昔に書いた物で今の考えは違いますわ」やっと一息に云った。
 「でも、本として出されているんでしょう?」老婆は云い返した。いつも時間を掛けて食事をするので、まだパンにも手を付けていない。
 「もう全部版を切らしました」男爵夫人は食事すら止めていた。逃れるように失礼しますと云うと、蹌踉めきながら食堂を出ていった。
 後ろの方で爆笑が起こった。義母に全ての食器を出し終えた瀧江と徳江と里江が三人して話している。
 「奥様がこの家に来られた時には……」
 「へえ、珍しい!」
 「それで、ベッドの上にね……」
 「……だったとはねえ」
 「あんたも……」
 居間では夫とその友人の徳山子爵が談笑していた。子爵夫人と二人の娘時子がいた。
「おはようございます」
 三人とも揃って男爵夫人の方を見て、挨拶した。
 避けることも出来ず、また夫に呼ばれたので、女は夫婦を前にした椅子へと向かって歩いていった。
 「驚きましたよ、あの山谷議員がねえ」世間話をするかのような口調で、子爵夫人は話しかけてくる。
 「旅館で腹を短刀で一刳りらしいですよ、驚く程短時間で為されたんですからね」子爵が云った。
 「まあ恐ろしい」そう云って子爵夫人は男爵夫人の目を見て云った。
 「まあ恐ろしい」二回繰り返した。
 男爵夫人は既にその目を反らしていた。
 支配人の柳瀬が来て、来客を告げた。暫くして詩人西垣と春川が入ってきた。途端に男爵夫人の顔が曇った。夫は二人に一礼するとどこかに行く素振りを見せた。
 「どちらに行かれるんですか?」急に不安になって、男爵夫人は口走った。ほとんど衝動のように。
 「少し用があってね」
 「鯉渕さんはお忙しいですね」子爵夫人が云った。
 「戸田蓬軒の全集は彼が纂の主任と云っても良いほどだからね」子爵はしたり顔で云う。
 「御子息の忠則伯が臨終の席に於いて、鯉渕さんに依頼されたんですってね」と子爵夫人。
 「おはようございます、こいつは春川、僕の詩人仲間です」と西垣。
 「初めまして、おはようございます」と春川。
 「おはようございます」気のない声で二人に応じ、男爵夫人は夫に近付いて、
 「今朝方は早くどちらへ行かれたのです、お加減は?」と懇願するような口調で云った。
 「うん、まあそういう所だよ、西垣さんの友達ならいいけど、余り怪しい人は家に連れ込まないように、こういう御時勢だ」と耳打ちして夫は出ていった。
 「おやおや、何度来てもあの坂本綾子がなあ」と西垣が破顔した。煙草に火を付ける。
 「詩人って獰悪な種族ですわね」と子爵夫人。
 「それで、今日は何しに来たの?」と男爵夫人。肩が微かに動いていた。
 「山谷が殺されてしまったからさ。と云うは建前でもある。君がこうも変わっちゃったんで、春川君に見せに来たんだ。とは云うものの、君は彼のことは顔ぐらいしかし知らないんじゃないのかな、それ程影の薄い男なんだよ。君が政治に文学に雄弁を披露している時、春川の奴、何時も壁の花だったのさ」
 この時ずっと黙ったままだった時子が嚔をした。
 「恐れ入ります」内気そうに春川は云った。
 「それはよろしゅうございましたね」男爵夫人は皮肉に込める力も無く溜息と共に云った。
 「なんたる来訪者か!」子爵は鼻息を吹き出した。
 「しかし、プロテウスの眷属たる君が、ああ云うつまらない男に手綱を握られてしまっていいのかい。山谷ともあれだけ、息が合っていたじゃないか?」西垣は煙草を吹かせている。 
 「その変身の過程で」男爵夫人は消えそうな声で、「馬になってふん捕まえられ、体よく轡を嵌められたのよ。息は合っているだけ、苦しくもなるもの」
 「やはり君は坂本綾子だな。他の女なら、そういう返しはできない筈だよ。てっきり偽物が坂本の振りをしているんだと思った程だ、それほど変わってしまっているとね」と西垣は煙草の箱を傾け、男爵夫人に一本差し出した。
 「吸う?」
 「いえ、煙草は禁じられているの、もちろんお酒も」女はもう相手の方を見てはいなかった。
 徳山夫妻は厳かに、その様子を観察していた。二人してそれぞれ時子の両手を押さえている。聖家族像のように見えた。
 「益々奇なる哉、だ!」西垣は大げさに両手を拡げた。「深更まで酒場にいた君がね」
 「出ていって」男爵夫人が呟いた。
 「お名残惜しいが、退散させて貰うよ」西垣は微笑を浮かべ、踵を返しかけたが、暫し躊躇った様子を見せ、懐へと手を遣った。
 そうして差し出された掌の上には、ル・コルヴィジェの白い建物が硝子の半円の中に閉じ込められていた。
 「これは……」女はただそれに吸い付けられるように眺めていた。
 「ミニチュアルさ、君が見たいって云ってただろ。俺じゃないよ。春川君からだって、留学でフランスに行ってきたらしい」
 「なんともまあ不躾な……」徳山子爵夫人は思わず漏らした。
 男爵夫人は初めは関心を反らそうと努めているようにも見えたが、やがてミニチュアルを手に取り、眺めることに沈湎した。
 春川はその間、一言もなく、落ちつかなげな素振りで男爵夫人の方を眺めていた。
 女はそれを脇目にして、少し厭そうな顔をした。この男の顔だけは前から知っていたが、驚く程に印象が薄い。何故こうも自分に執着を持っているのか、全く分からなかった。 
 春川は微かに笑っていた。詩人というが、どのような著作を出しているかはまるで分からなかった。
 「それでは」と云い、西垣は颯爽と居間を横切って姿を消した。春川は暫し立ち止まって女を見ていたが、
 「それでは、また機会があれば……」と云い、西垣の後に付いていった。
 「さようなら」
 徳山子爵夫人はなおも、鯉渕男爵夫人と話がしたそうであった。
 「山谷議員と貴女、お知り合いなんですってね」いきなり声を上げた。
 暫くミニチュアルを見詰めていた女は、そちらに振り返った。その顔は酷く蒼褪めていた。睫毛がひたすら瞬いていた。手先が戦慄き始めている。
 「ええ、共同執筆も致しましたわ」その声は震えている。こうも他人行儀な声音で云う事になろうとは。
 「お顔色が悪いようですね、いかがかなされました?」多少心配の色を顔に浮かべて、子爵夫人は云った。
 「いいえ、でも、少し下がらせて頂いてもよろしいでしょうか」
 「どうぞ、私たちが強制する事じゃありません、ねえ貴方?」と夫の方へ向き直って声を掛けた。
 「そりゃそうだよ、僕等もそろそろ下がらせて貰おうかな」口髭へと人差し指を持って行き、徳山子爵は云った。
 ところがそこへまた珍奇な来客が来た。義母と支那人であった。この二名が近頃仲良くしていることを、男爵夫人は知っていた。何を話しているのだろうか。この支那人と知り合いになって以来、義母の聾が勝手聾になったように見えた。少なくとも男爵夫人の発言を聞き取れているにも関わらず、都合の悪い事柄だけ無視するのである。
「貴女にも紹介しましょう。こちら陳さん、よろしく」
 「初めましてある」髭を長い手で扱いて、陳氏は一礼した。
 華僑だと直ぐに気付いた。陳と云うのも本名ではないに違いない。余程に目敏い人間であろう。顔を合わせた途端、爪先から頭の先まで値踏みをされているのだ。男爵夫人とて、この様な人間をこれまでも見てきたが、何故か今思い返してみても、霞の掛かるような見通しだった。
 「今日も色々と面白いことをして頂けるそうですよ」義母は元気よく耳を動かし続けている。
 男爵夫人は退散しようと思い、事実身体を動かしかけた。だが支那人が妙に気に障った。女の蒼白い顔に同情とも憐愍とも付かない視線を投げかけてくるのである。
 「この人、疲れてるね」小声で囁いた。
 「そりゃ、昔は色々やらかした人ですからね」老婦人は笑った。
 「よっぽど疲れ切ってるよ。気になるね」陳氏は耳障りな甲高い声で、繰り返した。
 確かに鯉渕男爵夫人は疲れ切っていた。
 「失礼致します」
 会話を素早く終わらせて、廊下へと出た。なおも陳氏の目が後ろ姿を追っている事に気付きながらも、忘れることにした。
 男爵夫人は結婚指輪へと手をやった。金で作られたそれは左手に在って薬指の骨を強く圧迫する程に締め付けていた。時折、落ちつかなさをもたらすので、なにかあると何時も弄っているのだった。
 「一年も前じゃないんでしょ、結婚されたの」徳山子爵夫人の声が聞こえる。
 「ああ、突然鯉渕が妻を持つことにしたので、僕らは驚いたよ。激しい恋愛の結果らしい」
 「それにしては、随分と冷めてるのね」と子爵夫人。
 「それはどうにも」子爵は口籠もった。
 「お子さんがお生まれになったら……」子爵夫人は心配そうに云う。時子が泣き始めた。
 廊下の灯が左右に連々と広がっていった。もう昼は長くなってきているけれども、それでも朝のうちは暗く、灯が点されている事もあるのだった。
 ただ自分の寝室を目指して歩いていった。二人の姿が灯りに照らされて見えた。良く見るでも無く、それが鯉渕男爵と徳江であると直ぐに分かった。固く抱擁をし合っていた。お互いの顔を押しつけている。接吻と思われたが影が差して良く分からない。男爵夫人の通過を些かも気付かぬ体で、そのままの姿勢で、肉体同士を震わせているのが分かった。徳江のボブの頭と、その赤い唇の息遣いが、男爵夫人には嫌という程見えていた。既にその場には誰もおらず、この二人だけがこの場の中心であるかのようだった。
 声を掛けられるなら掛けてやろうと思った。だが女は何故か躊躇した。疲れていたのだ。身体は重く、寝台に行きたかった。眠る気もまだ起こらなかったけれど、兎に角部屋に戻りたかったのだ。

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