ふじみ野市防災訓練の詳細は、以下の市のサイトをご参考ください!https://www.city.fujimino.saitama.jp/bosai_bohan/bosai/bosaijoho/7230.html

私は、2004年10月、中越地震に新潟県小千谷市で被災しました。その時の体験談です(ふじみ野オープン交流会のHPより)。

「中越地震に被災して 1 ―生き埋めになったおじいさん」
2004年10月23日土曜日17時56分、新潟県中越地方を震源とするマグニチュード6.8の地震が発生した。当時、私は、小千谷市元町に所在する料理屋「東忠」にいた。旅先で、この大地震に遭遇してしまった。
ちょうど旅仲間と夕食を始めるところだった。夕食の予約は18時だったが、17時45分には、もう「東忠」に着いていた。先付で、確かマグロの中トロ刺身がおいしそうに盛り付けられていたのを覚えている。みんなで「乾杯」をして小コップ一杯のビールを飲んだところで、地震に見舞われた。
この「東忠」さんは、江戸時代から続く老舗で、建物も古い。1868年の戊辰戦争時、長岡藩家老河井継之助が、小千谷在陣の新政府軍と戦闘回避の交渉を行った際、政府軍の回答待ちのため、休憩の場所としたところだ。「東忠」は、古い木造建築で坂の斜面に立っているせいか、地震の揺れで、わたしたちがいた部屋は大きく波打った。「まるでおぼれそうだ」、揺れの最中はそんな感じだった。天井は落ちてこなかったが、白いほこりが大量に落ちてきて、室内はほこりっぽくなり、髪の毛は白くなった。
しばらくして揺れがおさまると、ふすまや壁が壊れており、呆然としていたが、誰ともなく、「倒壊するかもしれない。出よう」と言って、女将さんの無事を確認して短く挨拶をした後、市内のホテルまで戻った。「東忠」もそうだが、道沿いの家や商店は、倒壊、半倒壊のようなところが多く、玄関先のドア、戸、壁が壊れて、道路にがれきが散乱していた。「車で通れないなあ」、仲間がつぶやいたが、そのとおり、道も寸断、隆起などが生じており、「東忠」からホテルの間の道は、車の通行は無理そうであった。
戻った先のホテルも被害が激しく「宿泊できない」とのことで、部屋から荷物を取り出した。夕暮れ時、このころ、日は完全に落ちて、町は完全に停電しており、月の光を除いて、辺りは真っ暗になってしまった。しばらくは、ホテルの駐車場の車の中でラジオを聞いて、情報の収集に努めた。ホテルから「東忠」方向ではない反対側(北方向)の道は、歩いたところ、車の通行は大丈夫そうだった。すぐ、東京へ帰ることも考えたが、ただ、関越高速道は通行不能であった。国道は、南の川口町も深刻な被害が発生しており、大渋滞になっているとの情報であった。関越に代わる信越道、磐越道の通行が可能かどうかもわからない。小千谷市内でも道路は陥没、隆起など、通行が困難なところが多く、また、停電で、街路灯、信号機も止まっており、夜の運転は危険であった。何より、残念なことに、車のガソリンは目盛り二個程度しかなかった。ガソリンスタンドが停電や地震で営業しているかどうかもわからない。このまま車で動いても、どこかで立ち往生する可能性が高かった。
上のような理由で、当日夜の小千谷からの脱出はあきらめて、「食事をしていないので、このままだとまずい。避難所に行けば、情報も入るし、食べ物もあるかもしれない」と一致し、市内を歩き、避難所を探すことにした。実は、この日は、昼食をろくに取っていなかった。コンビニのおにぎり、1個か2個だったと思う。スケジュールがタイトだったこともあるし、「東忠」のご馳走を楽しみに、お腹を減らしておこうと考えていたのだ。公的な屋内避難所は停電のため、その夜は、自家発電の総合体育館しかなかったそうだが、まちの至るところで、空地や駐車場などに数人から数十人、それ以上の人が集まっていた。ご商売をされている方や個人の方が、食べ物を周囲の人に配っていた。小千谷の地域の支え愛の強さにとても感服した。余震が続く中、火事が怖かったが、火事は起きなかった。情報では、地震発生後、一部でガスがもれたようだったが、すぐにガスは止まったとのことだった。
小千谷のまちを東西にまた、北に行ったり来たり、歩き回っていたところ、信濃川の西岸、元町の交差点で、小学校高学年前後の男の子と女の子が泣いていた。「どうしたの?」と聞くと、住んでいた家屋が壊れ、おじいさんが生き埋めになっているとのこと。おじいさんの「声はする」ということだった。小千谷では、断続的に余震が続いている。余震の影響で、おじいさんの上にさらにがれきが重なる可能性もある。当時、私は、人生30代半ばにして、初めて、人の安全救助にかかわることになった。やっかいなのは、この家屋の土地が窪んだ形状になっているということ。一階が、実際のところ、地下一階のような構造になっている。おじいさんは、窪んだ穴に落ちており、その上を家屋のがれきがふたをしているような状態であった。おじいさんを助けに行くのはよいが、足場が悪ければ、私もがれきの中に落ち込んでしまう可能性があった。ケガもしたくないし、生き埋めにもなりたくない。女の子のほうがお姉さんなのだろう。しっかり私の質問にも答えていたが、弟らしい男の子は、泣き続けている。
さあ、どうする?(2へ続く)

「中越地震に被災して 2 ―ラスト・サムライに導かれ」
(1からの続き)
生き埋めになったおじいさんを助けようとすれば、私まで、がれきの下の穴に落ち込み、ケガをしたり、生き埋めになるかもしれない。ただ、ためらいはほとんどなかった。なぜか、というと、私たちがこの小千谷に来たのは、上にも書いた河井継之助に憧れてのことである。河井は幕末の長岡藩家老で、司馬遼太郎さんの小説「峠」で主人公として描かれており、多くの人に知られているが、「武士の何たるか」を徹底的に考え、実践した人と言える。言わば、武士の中の武士であり、幕末維新でサムライの世も終わるが、まさに「ラスト・サムライ」と言える人だ。
河井は、陽明学の信奉者であった。陽明学というのは、儒教の一派なのだが、簡単に言えば、「知行合一」(ちこうごういつ)を貴ぶ。「知識は実践する」ためにあるという趣旨だ。知識だけで実践が伴わないことを嫌悪する。こう書くと、河井は厳格な堅物という感じを持たれる方もあるかと思うが、そうでもない。変装して町人に交じって、踊りを踊ったり、江戸から新潟へ帰るとき、外国船を借り切り、米と銅貨を積んで、函館と新潟でそれぞれ売却し、大儲けをするなど、気さくで商才にも長けている。また、横浜や長崎にも行き、外国の事情にも明るい。また、軍事の天才で、横浜で当時、東日本諸藩では稀だった最新の銃砲兵器を購入し、政府軍相手に使用している。長岡城を政府軍に奪られた後、奪い返したりしている。すること全てが、カッコよすぎるのだ。
2002年ころから、私は、そうした河井に憧れて、長岡の河井の旧宅跡(今は立派な資料館になった)や死亡した会津の只見(立派な資料館がある)など、関係の土地を何度も訪れたりした。当時、国の公務員で、いろいろな資料を作っていた私は、ことがあると、「河井だったらどうするだろう」「継さ(継之助さん)、どうしたらいいと思う?」などと一人で問答したりすることが少なくなかった。
そんな河井に憧れて、仲間と共に、小千谷に来た。河井なら当然、おじいさんを助けるだろう。迷いはなく、私は、がれきの上を歩き始めた。多分7メートルくらいの距離だったと思う。がれきの隙間から、おじいさんが見える。「おじいさん、ここを開けますよ」そう言って、私は、がれきをかき分け、穴を広げた。おじいさんを抱きかかえ、何とか無事に救出できた。余震が続くので、姉弟やご家族への挨拶もそこそこ、私と仲間は、その場を離れた。
 24時を過ぎたころ、体育館の横の運動場を駐車場にして、車で仮眠をしている人がいるということを確認し、我々も、車を移動させ、同じようにした。体育館には、市役所の職員の方が詰めていたが、ご家族やご自宅も被災されているか、と思うと気の毒だった。ガソリンがないので、暖房もかけず、余震がずっと続き、まったく寝られなかった。当日の夜は、月夜でだいぶん冷えたことは今でも記憶している。寒くてガタガタ、余震でガタガタ。朝までの数時間、ずっと震えていた。
朝5時ころのニュースで高速道路の信越道は通行可能ということを確かめ、柏崎、直江津方面へ向かうことにした。小千谷市内の道路は、陥没や隆起で行き止まりが多かったが、迂回に次ぐ、迂回で、田中角栄元総理の出身地である西山町へ出た。意外なことに営業しているコンビニがあり、おにぎりが3個だけあり、仲間で仲良く分けて食べた。また、これも意外なことにガソリンスタンドが開いており、給油に成功した。西山町は停電していなかったのか。仲間は一気に西山町、田中角栄元総理にファンになった。
 4週間後、気温が一けたになった小千谷を、私は一人で再訪した。東忠さんにお見舞いの挨拶に行き、地震の日の16時ころ訪れた市内の慈眼寺にも挨拶に行った。慈眼寺には、河井と政府軍代表が談判した部屋が現存してあり、関連の資料を展示していた。地震の二時間ほど前、そこを見学していていたのだ。談判の部屋の建物はやはり地震で崩れていたが、住職に聞くと、「再建する」とのことだった。私は、いくばくかの寄付をさせていただいた。
地震当日、談判の部屋を見学し、仲間と部屋から出ようとしたとき、私には、虫の知らせのようなものがあった。部屋を出たあと、「もう一回、まだ。何か心残りが」と言って、私一人、部屋に戻り、もう一度、部屋で座り込んだ。にらみつけるようにして、部屋を見まわし、その間、約30秒、仲間が待っているので、長居はできなかった。後から、「坪田さんが部屋に戻り、出てこなかったのは、やはり予兆のようなものを感じたの?」と仲間に聞かれた。「予兆ではないけど、とにかく、きちんと見なければ、という思いがしてきて」。
(4週間後の再訪の話に戻る)我々が、一晩を過ごした運動場に行くと、自衛隊が簡易の銭湯を設営して、住民が入浴できるようになっていた(隊員のみなさん、ありがとうございます)。70歳くらいのおじいさんが、お風呂で温まって、タオルを首にかけて出てきたところだった。「お風呂、いかかですか?」と問いかけると、「いやー気持ちいい、あったまるよー」と嬉しそうに述べていた。12月には仮設住宅もできるそうで、
早く元の生活に戻られることを願って、その場を後にした。
地震の被災については、余震被災からの避難、飲食料確保、安否確認、救助など、小千谷で経験し、多くのことを学んだ。車の通行が困難になること、停電で真っ暗になること、水がないと手が洗えない、なども経験した。
「万一の際は、知行合一でしっかり活かしていくよ」。私は、今では、河井の戦死した歳(43歳)をとうに越したが、永遠の憧れである「継さ」に対して、時折、そう語りかけている。

※河井は、30代半ばまで、藩の職にもほとんどつけず、ぶらぶらしていた。今でいうニートのようなものだった。ただ、生きた学問を心掛け、自らの鍛錬だけは忘れなかった。変わった人物のようだが、友人には恵まれた。「米百俵」を掲げた小林虎三郎も河井の友人の一人だった。河井の人生、「米百俵」の話、ともに、 生きた学問、学んだことを社会に活かすことの大切さを教えてくれるものと思っています(2021.9.3)。

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