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どうする信長、武田襲来に上杉を誘う(大河連動エッセイ)

 大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。坪田家のご先祖は戦国時代、美濃におり、斉藤、そして織田家の家臣とでしたので、信長さまのことを思うと胸がアツくなります。
 ドラマでは、武田信玄軍が1572年10月、徳川家康の領国の遠江(とおとうみ、静岡県西部)に攻め込むところが描かれています。武田軍は強兵で知られるうえ、兵の数では家康は劣勢です。
 また、同盟者である織田信長は、近江(おうみ、滋賀県)で浅井長政・朝倉義景軍や六角承禎軍、現在の大阪、奈良方面でも三好軍とそれぞれ対峙といった具合で、家康に十分な援軍を送るのは難しい状況でした。
 こうした中、信長は、越後(新潟県)を領有する上杉謙信に手紙を送ります(同年11月20日付け)。ここでは、その手紙の中身をみて、「どうする信長」を考えてみたいと思います。

 以下は、手紙の要旨です。
○信玄がこのように敵性を露呈した以上、永久に信玄と義絶することはもちろんである。信玄と信長との関係は、何十の遺恨が重なり、さらに積みつづけている。未来永劫に二度と友好関係を持つことはない。あなた(謙信)と信長とが連合すれば、信玄を退治するのは年月日がかかることではない。軍事行動のことは時々連絡をいただきたい。
○越中富山の一向一揆について、愚意を啓達せよとのことであるので、申し上げる。二十日、三十日のうちに終結する見通しがあるなら決戦するのがよいと思う。来春まで対陣が続くようであれば、帰国して、信州上州(長野・群馬)に作戦されるのがよろしかろう。そうすれば、私から信州とか手あたり次第侵入する。信玄が遠距離まで出陣してきたことは、よい時節が到来したもので、この期を逃してはならない。信玄を討ち取ってしまえば、加賀や越中の一揆をせん滅するのは手間が入らないだろう。作戦の前後を比較して分別することが必要である。
○江北小谷(浅井・朝倉軍)のことは、落着するのもまじかだ。朝倉は帰郷したがっている。
○虎御前山(とらごぜやま、浅井の本城である小谷城の前の山)や、そのほかの詰め城(敵の城の前に、自軍の軍勢を入れた城を指す)に多量に軍勢を入れて置き、信長は自由に行動する準備をしている。落ち度のない状況については安心してほしい。

 この手紙は、謙信の家臣である長与景連が、信長に面会した後、帰国の際にもたせたもので、口頭伝達の内容もあったようです。信玄と友好関係を築いてきた信長が、対信玄で、謙信と連携しようとして、手紙を謙信に送り、その返答として、長与が信長に面会したという経緯。

 信長としては、謙信に武田の後方である信州などを攻めてもらいたかったのでしょう。旧暦の11月20日は、現在の暦では年末前後で、越後と信州の境など降雪が想像され、謙信の武田攻めは簡単ではないようです。信長としてもそれは重々理解していたかとも思われますが。。そもそも謙信は、越中の後、能登を攻めますので、戦略方向は真逆。。

 同じく降雪を心配している朝倉軍の帰郷(実際にそうなる)については、信長は見通していたようです。信長は、近江については比較的楽観し、遠江での武田軍の動き次第で、対応していく態勢をとっていた?ようです。

 この手紙の一か月後の12月22日、武田軍と徳川軍は、浜松の北方の三方ヶ原で対戦、徳川軍は敗北しますが、武田軍は浜松城の攻囲はしませんでした。浜松城の攻囲は長期戦に及ぶ可能性がありました。ただ、浜松城救援について十分な兵力があったかはわかりません。ただ、そのまま春になり、謙信軍が信州などに入り込んだら、、、
 ちなみに、信長は、決戦好きで、3年後の長篠の合戦で、武田信玄の息子勝頼の本軍を誘い出し、決戦に持ち込み、武田軍に勝利します。

 

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