どうする信長、近畿をどうする?(大河ドラマ連動エッセイ)
大河ドラマ「どうする家康」に連動して、織田信長のどうする?「どうする信長」を書いてみました。
ドラマは、1575(天正3)年4月の大岡弥四郎事件が描かれています。
一方、信長は将軍義昭の京都、次いで河内の退去(1573年7月と11月)にともない、畿内(山城、摂津、河内、和泉、大和)の敵軍の掃討を進め、新たな支配体制を進めます。一方、大坂の石山本願寺は信長と軍事的対立を深めています。畿内各地で、将軍側の武将をやっつけた後、誰をそのあとにおくか??今回のどうする信長は、足利政権終了後の新たな畿内支配体制と本願寺攻めの主力大将をどうする?です。
まず、1570年1月、信長と将軍義昭は、畿内や周辺国の大名や国衆に上京を求めます。このとき、名指しされ、支配を認められたののが、
摂津 池田勝正、和田惟政、伊丹親興
河内 畠山昭高、遊佐信教、三好義継
大和 松永久秀
でした。京都(山城)の南は、将軍の側近である幕府奉公衆が城を与えられていました。将軍義昭が京都を追放となった1573年7月以後、信長は新たな支配体制を決めていきます。畿内は、朝廷公家や寺社、旧将軍家、三好家などとの関係が深い勢力が混在しており、一筋縄ではいきません。難しいところですが、信長は以下のとおり決めました。
1573年7月、将軍奉公衆の細川藤孝に山城(京都)西部の支配を認める。
1573年12月、三好家臣の若江三人衆に河内(大阪)北部の支配を認める。
大和(奈良)で松永久秀が降伏する。
1574年4月、塙(原田)直政に山城南部の軍事指揮権を与える。
1574年10月、河内南部で三好康長が降伏する。
1574年11月、元池田家家臣の荒木村重に摂津(大阪北部)の支配を認める。
南山城や河内南部、大和は、とりあえず行政支配者は置きませんでした。一方、異例の出世を遂げたのが、外様の荒木村重で、1574年11月時点でその支配領域は、摂津一国となりました。このとき、柴田勝家や秀吉の支配地は、2~3郡程度でしたので、信長譜代家臣を超える処遇でした。これには、理由があり、村重の領地は、村重が独自で確保したというもので、信長軍の支配とは無関係のものでした。現状を容認したという性格のものです。村重の支配地は、摂津の東部でしたが、この後、摂津の西部や北部に及び、石山本願寺を除く摂津全域に及びます。この後、村重は、大坂の石山本願寺攻めに動員され、播磨(兵庫)も担当となります。
もう一人の出世頭は、南山城を任された塙(ばん)直政です。直政は、身分は馬廻(うままわり)で、大将の馬の周囲(廻り)に付き添って護衛や伝令などが役割でした。つまり、一軍を率いる武将ではなく、領地もそれほど多くなかったようです。一方、京都で奉行を務めるなど、行政能力が高く評価されていました。京都や畿内には、朝廷、公家、寺社の土地が多く、また様々な権益があり、これを調整する能力が必要で、信長は直政がこうした能力があると見込んだのでしょう。また、鉄砲及び弾薬火薬などの調達など、兵器商との交流も同様でした。
ここで問題となるのは、大和です。大和は、三好家重臣の松永久秀と寺社勢力の代表である筒井順慶が長らく争っていましたが、1568年の信長上洛時、信長に久秀が臣従したことから、「久秀の切り取り次第」という対応になりました。その後、久秀は、山城南部(将軍直轄)に進出し、将軍義昭及び信長と対立します。一方、順慶は、将軍義昭との関係を強化します。久秀は、武田信玄とも結び、義昭の挙兵時には、反信長となりますが、1573年12月、信長に降伏し、大和北部の名城、多聞山城を信長に差し出します。一方、順慶は、挙兵した将軍義昭にはつかず、信長に与するという状況でした。この結果、大和は、久秀の地位が低下し、順慶のそれが上昇し、従前の久秀優位が崩れていました。大和支配を久秀と順慶のどちらにまかすか、あるいは別の人物をたてるかは、信長としても思案のしどころでした。
また、門徒を武装化させている石山本願寺とは、断続的に、戦闘が行われていましたが、本格的な大軍の投入時には、河内、大和の支配者が主力になる可能性がありました。本願寺(現在の大阪城)を攻める場合、淀川など河川が入り組んでいる本願寺の北や西からは攻めにくく、寺の東や南が主戦場になります。この場合、河内や大和が進軍の経路であり、また兵力の動員地となります(徳川家康が豊臣秀頼を攻めた大坂の冬、夏の陣の同じ経路、配置です)。
信長の有力武将で、その候補とされる人物は、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀などが挙げられます。このうち、丹羽と羽柴は、1573年9月、それぞれ若狭と近江北部を支配地として与えたばかりでした。1574年1月以降、一向宗門徒などの勢力が拡大し始めた越前の警備も対応しています。佐久間信盛は、1574年2月、武田勝頼の美濃明知城攻めに援軍に出ており、主に武田対応を任されていた。滝川一益は伊勢長島の一向一揆に対応していました(1574年9月にせん滅)。残るは柴田、明智となりますが、柴田は翌年、越前を任せられますので、除外。明智は、京都の奉行を村井貞勝とともに務めていました。また、もともと外様ですので大役を与えることは躊躇されます。あてがう重臣がいないため、抜擢人事ということになります。
大和の担当ですが、信長の選択は、塙直政でした。直政は、南山城を担当したことから、隣地である大和の権益安堵なども行い始めます。そして1575年3月、直政は大和守護となります。久秀や順慶の上に立つ軍事指揮権が与えられました。領地は少なかったようですが、今後の本願寺攻めの功績により、畿内であてがう予定だったと考えられます。
1575年5月、長篠の合戦で武田軍を破ると、同年7月、信長の有力家臣は任官します。このとき、直政は、備中守に任じられます(同時に原田姓を賜る)。このとき、備中を支配しているのは毛利輝元でした。信長は、本願寺攻略後、直政に、毛利攻めを命じるつもりだったかもしれません。羽柴秀吉は筑前守、明智光秀は日向守、滝川一益は伊予守でした。直政は、彼らと同列の扱いと言えます。同年10月以降、直政は、河内南部の安堵手続きなどを行います。
1576年4月、本願寺攻めが再開されますが、このときの陣容は、以下のとおりです。
原田直政軍(南山城、大和、河内、和泉、紀州根来衆)
明智光秀軍(近江志賀、北山城衆)
細川藤孝軍(西山城衆)
荒木村重軍(摂津衆)
しかし、同5月、直政は戦死してしまいます。大軍を率いた経験がない直政は、初めての大軍指揮で大将自ら命を落としてしまいます。信長は、直政に武功を挙げさせて、さらに昇進させる考えだったのでしょうが、実現しませんでした。このときの攻撃軍は、同僚武将との間で、上下関係はなく、いわばバラバラの状況だったのでしょう。
直政死後、大和は筒井順慶が守護となり、これに反発した松永久秀は、謀反を起こします。本願寺攻めは、佐久間信盛が責任者となりますが、1576年以降、毛利と上杉が信長と手切れとなり、信長は兵力の分散を強いられます。また、摂津の荒木村重も1578年10月には謀反(79年12月に鎮圧)。畿内はなかなか落ち着きませんでした。
急速に支配地を拡大する信長ですが、その地を任す人材や軍団の育成はなかなか追いつきません。抜擢や担当の交替は、家臣の間にあつれきを生みます。信長の人材配置の成功例は秀吉だったと結果を知っている我々は評価できますが、そのほかの成功例は?というと、答えに窮してしまいますね。