享楽って儚いですよね、みたいな話
※ 本記事は筑波大学学園祭実行委員会や雙峰祭に関係する各組織の立場に立って書かれたものではなく、あくまで当該委員会とは無関係である一個人の見解を述べたものです。
メリークリスマス!!!!!
?
はい。
\\\この記事は 学園祭非公式 Advent Calendar 2022 の16日目の記事です///
―どうして12月16日の記事を2月に公開しているのだろうか。私がずぼらだからとしか言いようがない。恥ずかしい。
何者?
たぬき (@T_T_Raccoon) と言う。アイコンはたぬきではない。千葉県出身。
筑波大学の比較文化学類 (比文) の3年生で、文化地理学コースにいる。
趣味はちょっとしたお出かけと車の運転、ニュータウンや商業施設巡りなど。特に後半部分から「ヤバさ」が垣間見えるが、見なかったことにして欲しい。
そして、2021年 (一昨年になってしまった!) に、筑波大学学園祭実行委員会で執行代として仕事をしていた。
私の務めた役職が例年担当している (らしい) お仕事内容はだいたい以下の通りである。
怪文書を錬成する
委員会内の色々な会議に出る
偉い人とおしゃべりをする
内部向けの詳しいマニュアルを作る
当日窓口や巡回の準備をする
かなり雑な説明をしているが、主に学園祭の当日窓口や巡回を担当していた。
どうしてこうなった?
こっちが聞きたいよ、という感じではあるが、思考の整理も兼ねて簡単に記しておこうと思う。
自分にとって、“お祭り”好きの原体験は地元の盆踊りではないかと思う。いつもは閑散としている公園に多くの人が集まって屋台や踊りに興じている光景は、非常に魅力的だった。
ちなみに、当時一番好きだった出し物はわたあめである。当時から食べることしか考えていなかったようだ。
“お祭り好き”を自覚するようになった契機は、高校の文化祭だった。毎年秋の文化祭では、1・2年生は出店など、3年生は劇を行うことが慣例化していた。我々の代も同様の出店を各々のクラスで行っており、その中で出店の発注やら劇の音響 (大したことはやっていないが・・・) やらを担当した。また、高校で所属していた地理部の企画にも参画した (特に2年次は仕切る立場だった)。
こうした経験は自分にとって”お祭り”への愛を深めることに繋がったと思う。イベントに向けて仕事をすることの快感に目覚めてしまったことは、社畜生活の原点となっているかもしれない。
雙峰祭お疲れ様でした
4カ月近く経って言うものでもない気がするが……。本当に。いろいろと業務があった関係で同じところにずっと滞在していたが、コロナ禍で長らく閑散としていたキャンパスに学外含め老若男女問わず多くの方があふれる光景は、見ていて非常に嬉しいものだった。後輩たちが生き生きと仕事している姿も大変格好良かった。
以下、仕事をサボりつつ撮った写真の数々
この3年間、世間は感染症に振り回され続けてきた。筑波大学の学園祭「雙峰祭」も大きな影響を受け、2020年は中止、2021年はオンラインでの開催を余儀なくされた。今回の雙峰祭はようやく諸条件が整い、実に3年ぶりに対面開催が実現された。事前予約や入場制限などコロナ禍特有の制約も多く、決して自由自在というわけではなかったが、オンライン化を余儀なくされた21年において開催形態を巡る議論にほんの少し首を突っ込んでいた身としては、よくここまで持ってきたなあ・・・と感心させられてしまった。身内贔屓かもしれないが。
享楽って儚くないですか?
さて。
筑波大学の学園祭実行委員会は2年次を執行代としている。その関係で、2020年春入学の私は、「現役」の間に対面の学園祭を経験することなく引退した。その点において、昨年の学園祭を見た時に「これが学園祭か・・・」と感じたというのが正直なところである。私事で恐縮だが、比較的実家に近かった他大学の学園祭に行ったことはあれど、大学入学前に筑波の学園祭を見たことはなく (茨城まで行くのが面倒だった)、今回が初めてだった。(何をもって計画してたんだろうか?) 同情しろとはつゆとも思わないが、結果としてそうなった。
ただ、これは「コロナ世代」だから思うことなのかもしれないが、お祭りとはすごい脆い存在であると思うのである。このような催しは人々の「好き」とか「楽しい」とかいった感情を原動力として行われている以上、そのような感情が失われてしまったり、あるいはその感情を行動に移す人がいなくなってしまったら、それは容易に失われてしまう。また、感染症のように有事の場合には、娯楽は所詮娯楽であるから、当然ながら様々な制約を免れ得ない。
特に、金銭的なバックグラウンドがない学生の行うイベントは、そうした影響に左右されがちである。筑波大学 (とそれに関連した組織) の学校行事という狭い範囲を切り取っただけでも、様々な行事が時勢に翻弄されてきた。
春日エリアの学園祭?
現在、筑波大学学園祭「雙峰祭」の開催エリアは第1~3エリア、大学会館エリア(2022年は実施なし)、体育・芸術エリアになっている。これだけでも、学園祭の開催エリアとしてはそれなりに大きい方である。しかしさすがは筑波キャンパス、これ以外にも非常に広大な領域を有している。形状が南北に長細いことも手伝って、北のT-PIRC農場から南の春日エリアまでは、直線距離でも4kmを超える。
このように広大なキャンパスを全て使って学園祭をやることは極めて困難である。そのため、雙峰祭は屋外の企画も含めて、基本的に授業が行われているエリアを中心に開催されている。
しかし、授業が行われているにもかかわらず学園祭と無縁のエリアが存在する。それが春日エリアだ。学園祭が行われる11月初頭も、春日エリアは学園祭から切り離されてひっそりとしている。
しかし、そんな春日エリアでも学園祭が実施されていた時期があった。拙稿をご覧の方の多くがご存じであろう、図書館情報大学が存在していた時の事である (*1)。合併前の図情では学園祭「栗苑祭」が開催されていた。合併直前のwebアーカイブがいくつか残っていたので、ここにまとめておく。
このほか、貴重な映像資料として、筑波大学附属中央図書館収蔵の映像資料『ULIS my world : 図書館情報大学を君たちに』をオススメする。
栗苑祭は2002年を最後に終了し、現在に至る。その後、春日エリアで学園祭が実施されたことはない。
*1: 筑波大学より6年遅れて1979年に開学。2002年に筑波大学と統合、2004年に閉学。現在の情報学群知識情報・図書館学類などの前身。ちなみに、筑波大学の学生歌が「常陸野の」であるところ、同大学の学生歌は「常陸野に」。
学園祭における学類別セクター―「基臨社祭」・「桐工祭」
著者注: 芸術祭等の参加規程等については変更される場合もあるため、該当年度の雙峰祭募集要項をご参照ください。
雙峰祭と銘打って様々な企画を擁する雙峰祭だが、その中にあって異色の立ち位置にあるのが、「芸術祭」である。芸術祭参加企画は雙峰祭の企画でありながら、同じ雙峰祭の一企画である「芸術祭実行委員会」によって芸術祭としてのトータルプロデュースもなされるという複雑な関係にある。
芸術祭は名前の通り芸術専門学群や芸術学学位Pなどの所属学生を中心としているが、かつては芸術だけでない他分野においても同様の催しが開催されていたようだ。
その1つが、医学を中心とした「基臨社祭」である。1990年2月25日の筑波学生新聞によれば、名前は基礎・臨床・社会医学の3専攻の頭文字を取ったものだそうだ。また、桐医会 (*2) (1989) によると、基臨社祭の創始以前、雙峰祭には1年生を中心に学群企画で参加することがもっぱらだった。しかし、多くの学生は参加せず、学群企画と呼ぶには企画の内容や人力の面で不都合があったことから、より多くの学群生を学園祭に参加させるべく創始されたとされている。
基臨社祭の第一回は1979年に行われた。行われなくなった時期ははっきりとわからなかったが、桐医会 (1993) に掲載されたOBOGコメントに、「(基臨社祭が) 思ったより健全な運営がされていることを聞き・・・」というものがあり、この時期には継続して実施されていたものと思われる。内容はサークル発表やミスコンのような「いかにも学園祭」といったものから、医学シンポジウムまで多種多様だったようだ。現在記録として振り返ることができる企画は学術企画ばかりだが、出てきた企画のいくつかを書き留めておく。(第7・8回については『桐医会会報』と『雙峰祭論集』に収録された学術企画一覧を別個に参照しているため、重複がある可能性が高い)
第3回: 1年の医ゼミ発表 (桐医会, 1981)
第6回:『臓器研究』『健康リサーチ』『精神医学研究会・シンポジウム』『極地医学研究会・講演会』『映画』(桐医会, 1985)
第7回: シンポジウム「人権・脳死・倫理と臓器移植」(桐医会, 1986)、『医学研究』『細菌研究』『医短生へのアンケート〜知られざる世界〜』『フィルム説明 検体展示』(筑波大学課外活動資料室世話人会, 1998)
第8回: 映画『痴呆性老人の世界』(桐医会, 1987a)、『茨城県南の医療について』『terminal care―死の医療』『医療経済』『脳死』『老人医療』『「自殺」についてのシンポジウム』(筑波大学課外活動資料室世話人会, 1998)
第10回:『ガンについて考える』『全人的医療を考えるためのwork shop』『健康リサーチ』(筑波学生新聞 1988年10月1日号)
ただ、当時も開催形態を巡って様々な議論があったようだ。桐医会会報に記載されているだけで、次のような課題が各年の実行委員会関係者によって報告/指摘されている。
医学短期大学部との関係 (桐医会, 1984b; 桐医会, 1985)
著者注: 共催するか否かを巡る問題。
1984年に雙峰祭が中止される中、学群祭として開催したことに関する議論 (桐医会, 1984b; 桐医会, 1985)
1985年に実行委員会では雙峰祭との別日開催を決議するが、クラ代会 (*3) で否決 (桐医会, 1986)
財政面 (桐医会, 1985)
企画者の少なさ (桐医会, 1985)
参加者の少なさ (桐医会, 1985; 桐医会, 1986; 桐医会, 1987a; 桐医会, 1987b)
企画の質の甘さ (桐医会, 1984b; 桐医会, 1985; 桐医会, 1986)
結局、今日では医学専門学群単独での催事は行われていない。
これとは別に、「桐工祭」というものが行われていたこともあった。基礎工学類から応用理工学類に受け継がれたようだが、パッと出てくる記録は少なめである。例えば1988年10月1日の筑波学生新聞では、桐工祭と銘打った以下の企画が紹介されている。
1988年: 『ディスコ』『モニュメント設置』『パフォーマンス』
このうちモニュメント設置は3A204上屋上で実施されたそうだ(!)。よくそんなところの使用許可を得たな、と思う。
応用理工学類ドメインに残る旧サイトには、現在でも桐工祭の記述が残っている。
しかし、こちらも近年の学園祭では行われなくなり、芸術祭のみが今に残る。
*2:「一般社団法人筑波大学医学同窓会桐医会」。筑波大学医学専門学群 (現・医学群医学類) の同窓会組織として発足。
*3: クラス代表者会議。
おわりに
なんだか冗長になってしまった。自分でも書いている途中で何をやっているのかよくわからなくなっている。正直途中から半分くらい徒労である。
ただ、書いていて一つ思ったことがある。最後にそれだけ記させてほしい。
今回取り上げた事象は全て「今日までに消えてしまった」という点では共通しているが、栗苑祭とそれ以外では残っている記録の数が圧倒的に違う。前者に関してはHPのアーカイブなどで様々な情報を比較的簡単に探り出すことができたが、基臨社祭については大変失礼だがある日突然ぬるっと消えうせたような感触を覚えているし、桐工祭に至ってはその様相すら探れないといった感じが正直なところだ。実施されていた時期がそう極端に違っているわけでもないが (ちょうど2000年を目前にしてPCの爆発的ヒットという革命があったとはいえ)、何がそんなに違ったのだろうか。
おそらくは、祭の存在に対する危機意識の違いなのかと思う。栗苑祭については、2000年6月に統合に向けた協議の開始が公となり、“終わり”まで予見していたのかはさておき、何らかの変化が予見されていただろう。少なくとも「図情の学園祭」ではなくなるわけだ。栗苑祭HPが格納されている学生サーバーの説明文にも、こんな文章がみられた。大学合併前という特殊な状況が、人々を記録という行為に駆り立てていたのだろう。
しかし、基臨社祭や桐工祭に、ここまで明らかに示された「変化点」はおそらくなかったのではないか。(個人的にはあったとしても想像したくない気がするが) しかし実際には残念な事にぬるっと姿をくらましてしまう。学生主体の行事とは“所詮”こんなものなのかと思う。
そして、危機意識が無ければ記録がされないというのは雙峰祭それ自体も同じなのである。実は、実はというのもおかしい気がするが、学園闘争期から1990年代初頭にかけての雙峰祭の記録というのは本当にふんだんに残されている。1980年と1984年に学園祭闘争で学園祭が中止になったとか、本部に抗議するべく学生が本部棟に立てこもったところ機動隊が排除のため派遣されたとか、当時の昭和天皇の御容態が悪化した際に実委も企画団体も“万が一”の際の指針を打ち出せなかったとか、議会制を取っていた企画団体責任者総会が1992年に事務連絡会的な企画団体責任者連絡会へ改編されたとか、大学図書館の本学関係資料を少し漁るだけでそれなりに知ったかぶりをすることができる。
しかし、それ以降の雙峰祭の記録を探ることは意外と大変だ。もちろん、インターネット時代の恩恵と言えばよいだろうか、 sohosai.com とか sohosai.tsukuba.ac.jp とかいったアドレスをwebアーカイブに打ち込めば大体の年の年度webは見ることができる。それはそれで大変大きな財産だが、それまで記録されているような関係者同士の議論の痕跡などはだんだんと見えなくなっている(*4)。その背景には、学園祭を開催という行為が良い意味でマンネリ化したことがあるのではないかと思う。言うまでもないが、来年の学園祭開催すら危ぶまれる状況と、きっと確実に承認が下りる状況では、危機意識など全く異なるだろう。あえて嫌な言葉を使うとすれば、「平和ボケ」が起こっていたと言える。
しかし、その平和に進んでいた歯車を狂わせてしまったのが、かの新型コロナウイルスなのだ。中止・オンライン化という極端なイレギュラーを強いられた2年間を経て、昨年の段階でもなお、雙峰祭は残念ながらコロナ前の状況を完全に取り戻したとは言えない状況にある。withコロナ、場合によってはafterコロナすら叫ばれ始めた昨今では、学園祭闘争の頃と異なり「来年はもっとよくなる」ことが期待できるのでまだ良いが、一時期はまさしく“一寸先は闇”と言わんばかりの状況だった。学内外を問わず、多くの行事や活動でノウハウ継承が課題として叫ばれていたことを今でも鮮明に覚えている。そうした状況において、私も現役の時分は「雙峰祭」という得体の知れない何かを創り上げなければならないことに大きな焦りを感じていた。そうした焦りが、学園祭、ひいてはそれに関連した様々な学内行事に関する強い関心として現れたことは否定できない。その点においては、結局「行事の過去に強い関心を持つ自分の姿」というのも、コロナ禍が残した亡霊だったのかもしれない。
記録を残すことは大事だと思うが、こういうことを考えると極めて複雑な感情になる。雙峰祭その他が早く「平和」を取り戻し、もうこんな昔に固執する亡霊が出ないことを願ってやまない。
今年の雙峰祭は去年にも増して華やかなものになりますように。
*4: 勿論、かつて当事者だった身としてはかつての“黒歴史”を詳らかにされてしまっては困る部分も大いにあるわけなのでアレですが・・・。
参考文献
紫峰会 (筑波大学学生後援会) 課外活動資料室編 (1993):『とりあえず筑波大学課外活動十年史』.
筑波学生新聞 1988年10月1日号
筑波学生新聞 1990年2月25日号
筑波大学課外活動資料室世話人会編 (1998):『1992年~1993年当時の学園祭論集』.
桐医会編 (1981):『桐医会会報 第2号』
桐医会編 (1983):『桐医会会報 第6・7号』
桐医会編 (1984a):『桐医会会報 第9号』
桐医会編 (1984b):『桐医会会報 第10号』
桐医会編 (1985):『桐医会会報 第11号』
桐医会編 (1986):『桐医会会報 第14号』
桐医会編 (1987a):『桐医会会報 第18号』
桐医会編 (1987b):『桐医会会報 第21号』
桐医会編 (1989):『桐医会会報 第25号』
桐医会編 (1993):『桐医会会報 第33号』
桐医会編 (1998):『桐医会会報 第42号』
図書館情報大学 入学案内 (昭和57年度~59年度・61~63年度・平成2~3年度)
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